何年たっても、まだ狂ってる。
Still Crazy After All These Years (Paul Simon)
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『綉春刀』続編始動。一作目のファンを失望させた制作発表とは。
低予算で作られた無名監督の映画が好評を得て、「それじゃ続編を」となり、投資する会社が増えて潤滑な資金で続編が企画されたとき。いざ制作が発表されると、主役の俳優以外はがらっと前作からキャストが変わったときのもやもや感は、やっとの思いでW杯初出場を勝ち取った弱小国のチームが、本大会出場時にはキャプテン以外がらっと選手が入れ替わっていた時のもやもや感に似ている。
何が言いたいかというと、映画『绣春刀』のことだ。
※日本公開時の題名は『ブレイド・マスター』だが、私はこの邦題が好きじゃないので原題『绣春刀』のまま話を進める。そもそもこの映画が日本で不人気なのは、『ブレイド・マスター』という汎用的すぎるカタカナ名のせいもあると私は見ている。『ブレイド・マスター』というタイトルだけ聞いて、「どんな映画だろう、見てみたい」とはまず思わない。

この映画は一作目が2014年に中国で公開され、2015年には日本でもミニシアターでひっそりと公開された。映画の感想についてはこちらの記事を読んでいただくとして、ここでは先日制作発表会が行われた、続編について書きとめておきたい。

この映画の原作者で、脚本も書いた路陽(ルー・ヤン)監督の話によると、『绣春刀』続編の企画は、一作目が公開された二ヶ月後、2014年10月に持ち上がったらしい。つまり一作目の制作時には「あわよくば続編を」という考えはなかったわけだ。映画は路陽監督の監督三作目で、彼は当時、ほぼ無名の新鋭監督だった。低予算なため宣伝もほとんどできない状態だったが、口コミでじわじわと人気が広まり、結果的にはなんとか制作費をペイできる小ヒットになったという。
映画自体の評価も高かったため、続編が企画された。続編企画が進行中と公表された2014年11月には、路陽監督はインタビューで「続編は一作目の前日譚になる」と発言。これを受けて続編のタイトルは、以後、便宜的に『绣春刀前传』と称されるようになった。
続編では資金が一作目の3倍以上にアップし、「キャストも全面的にグレードアップする」と監督。この時点ですでに、「一作目の味わいが失われるのでは」と危惧していたファンは少なからずいた。私もその一人で、一作目のあの、低予算の中でなんとかやりくりしているB級っぽさがこの映画の魅力の一つだと思っていたからだ。
それにキャストも全面的にグレードアップって? 一作目の出演俳優ががらっと入れ替わる可能性もあるってこと? 
いやいや一作目の人気は魅力的な登場キャラクターたちによるところも大きかったし、さすがにそれはないだろう。一作目の前日譚ということは、主役の三兄弟の出会いや、義兄弟の契りを結ぶ過程などを、どうしたってファンは期待するだろうし。
それに私は知らなかったが、監督は「前传は丁修と靳一川の師兄弟と、三兄弟の過去の話になる」と言ったらしい。特に師兄弟の話が核心になるとか。この映画の脚本も書いている監督がそう言うのだから、ファンは期待しない訳にはいかない。とりわけ一作目でもっとも中国の観客、特に女性たちに人気が出たのが、丁修と靳一川の師兄弟なのだから。この二人は「相思相愛」ならぬ「相愛相殺」の関係だと、ファンの間では言われている。
ちなみに中国での绣春刀人気には、腐女子たちもおおいに貢献していると私は思う。その腐女子人気を支えていたのが丁修、靳一川の師兄弟だ。

そんな訳で監督の「キャストを全面的にグレードアップ」発言に一末の不安を感じつつも、ファンは『前传』の撮影開始を心待ちにしていた。その状態が約一年半続いた。

で、先日3月16日に正式に、『绣春刀前传』の制作発表会が行われた。正式タイトルは『绣春刀 修羅戦場』。主要キャストも発表されたが、なんと前作でも主役を演じた張震(チャン・チェン)以外はがらっと総入れ替えに。当然ストーリーもガラッと変わって、前作のような三兄弟が軸の話ではなく、全く新しいキャラクターが新しいストーリーを展開するとのこと。

ちょっと待て。それって果たして『前传』か?

だが監督はきっぱり「タイムラインからいって、一作目の前传と言えます」と言う。確かに時代設定は天啓七年で、まだ魏忠賢の専横時代。一作目の数年前の設定だ。
だが時代設定が一作目の前というだけで、『前传』と名乗るのはちょっと苦しい。『前传』というからには、ファンは当然三兄弟と、師兄弟の過去話を期待していたのだから。
それを大胆に裏切ったこの発表。一作目のファンからは当然非難の声も上がっているし、私も残念だが、一方で納得もしている。だって今回もまた三兄弟を主役にしたところで、彼らはこの作品では死なないと分かっているし。どんな危険な状況になろうとハラハラドキドキしないし、危険を乗り換えた時の喜びもない。それって三兄弟のファンは「キャラクター映画」として楽しめても、それ以外のファンにはつまんない映画になるのではと思うからだ。
そのことについては、この続編で初めて「監製(プロダクションマネージャーのことか?)」としてスタッフに加わった寧浩(ニン・ハオ)も同じ考えらしい。彼は映画の全面的グレードアップを計る路陽監督に依頼されて監製となったが、路陽は最初、三兄弟が主役の脚本を書いて寧浩に見せたところ、書き直しを命じられた。理由は「彼らはすでにその運命が確定しているから、観客の予想外の喜びや悲しみには限りがある」から。私もそれに同意する。
その後、路陽は書き直した脚本を寧浩に見せてはダメだしをくらい、五稿目でようやく寧浩からOKをもらったとか。映画は脚本が命だし、なんだか期待できそうではないか。一作目のスタッフだけで進めるのではなく、外部から監督としても監製としても実績のある寧浩を招いたことは、良い結果につながるのではないだろうか。

それに前作の主役だった沈煉はまだ引き続き主役で、演じる俳優も張震のままだ。軸となる俳優がそのままだから、よく「失敗した続編映画」として名の挙がる『スピード2』や『マスク2』のようなことにはならないのでは。張震は以前、「異なる役を演じることが好きだ。再び同じ役を演じるのは好きじゃない」と言ったそうで、確かにこれまで同じ役を再び演じることはなかった。それについて路陽は、「今回の役は(沈煉という役は同じでも)新鮮な感じがあるから、張震は引き受けたのでは」と語っている。
また、張震以外はがらっとキャストが変わったことについては、「寧浩と討論した結果、新しいストーリーと役柄を採用した。沈煉を核心に、彼に新しい人物とからませ、新しい冒険をさせる」とのこと。その一方で、「『绣春刀2 修羅戦場』で新しく登場する役柄の何人かは、一作目の『绣春刀』の役柄と複雑で入り組んだ関係にある」とも漏らしている。
さらに、発表された主要キャストには名前がなかったが、監督いわく、実は張震以外にも、一作目に続いて出演する俳優はいるらしい。それも一作目と同じ役で。だが彼らは主演ではなく、いわば特別出演のような形で、短時間の出演になるのではないだろうか。

そうした期待はあるものの、とりあえずはっきりしたことは、続編は一作目とは違い、三兄弟が主役の話ではないということ。また一作目で鮮烈な印象を放った丁修が登場するかどうかも未定だ。そのことに失望しているファンは多く、「監督は、前传は師兄弟の話だと言っていたのに」「詐欺師」と、監督を非難する声も少なくない。
そうしたファンの反応は、監督は充分予想していただろう。それでもあえてガラッと主要キャストを入れ替えた。前作のキャストをそのまま引き継げば前作のファンはまず映画館に足を運ぶだろうし、ある程度固定客は確保できたはず。だがその固定客を切り捨ててまで、作品のグレードアップに踏み切ったのだーーと、私は好意的に解釈したい。というのも、一作目は作品としてはいろいろ惜しい部分もあり、完成度は決して高くなかった。だから寧浩を監製に招いた続編は、一作目を上回る作品になるのではないかと期待している。

だがその一方で、なんともいえないもやもや感が残る。冒頭にも書いたように、苦労してなんとかW杯の出場権を勝ち取った弱小チームが、本大会ではがらっとメンバーが入れ替わっていた、あのもやもや感に似ている。一作目の出演俳優たちは、ほぼ無名の青年監督の低予算映画にもかかわらず、脚本の良さや、スタッフの情熱に惹かれて出演したのだ。それが高評価を得て、前作より資金が大幅にアップした続編には、前作のキャストはほとんど呼ばれず、かわりに人気のスター女優が出演する。もやもやするけど、発表されたポスターがカッコいいのでやっぱり期待してしまう。劇画調で、青年コミックの単行本の表紙にも見える。

よく見ると、飛魚服のデザインが前作とは変わっている。実際に映画でもこのデザインだったら、飛魚服もグレードアップということになる。

撮影開始は4月3日から。公開は来年になる見込み。もし中国でヒットしたら、日本でも前回のようなミニシアターではなく、ロードショー公開される見込みがあるかも。
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『KANO 1931 海の向こうの甲子園』
『KANO 1931 海の向こうの甲子園』

うーん。見る前の期待が大きすぎたのか。私には合わなかった。
見る者を泣かそう、泣かそうとしすぎ。実話を元に脚色したそうだけど、その「脚色」の部分がベタ過ぎ。くさ過ぎ。
甲子園の決勝戦の試合中に、投手が相手チームの打者に「痛いんだろう、なぜあきらめない」とか言うか? いくら映画でもリアリティなさすぎて萎える。時代遅れのスポ根漫画を見せられてるよう。アナウンサーが試合中の選手たちの仕草や心情を全て言葉で説明するのも、古くさい野球漫画のようでダサい。もっと映画的な見せ方はできないのか。

無名のチームが大会に旋風を巻き起こしたものの惜しくも決勝で敗れる、というのはチャンピオンズリーグ2001-2002のレバークーゼンのようで、とっても私好みのシチュエーションなのだけれど。
泣かそう、泣かそう、とする演出があざとく感じて、逆にちっとも涙腺がゆるまなかった。
こういうのってもっと淡々とした演出の方が、私はぐっと胸に迫ってくる。

球児たちもみんな心がきれいないい子すぎてリアリティがない。異なる3民族が同じチームなんだから、表面では仲良くしてても、内心では自分と違う民族を見下したり、反発したりとか、いろいろ葛藤がありそうだけど。そういう葛藤を乗り越えてチームとして団結する、というドラマがない。脚色するんならそういう部分を脚色した方が私は共感できたし、漢人・日本人・原住民の混合チームというKANOならではの個性がより伝わったのでは。
それにこの年頃の男子ならもっと異性への性欲がさかんで、ばんばん下ネタを連発しそうなのに、なんにもないし。みんなきれいすぎて泥臭さがゼロ。とにかく、男たちのドラマにしてはきれいすぎるのが私には合わなかった。

こういうさわやかな青春映画を見て素直に感動できない私は、きっとひねくれている。
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『セデック・バレ』
 『セデック・バレ』

「文明が俺たちに屈服を強いるなら、俺たちは野蛮の誇りを見せてやる」

このモーナ・ルダオの言葉でも分かるように、この映画は単純な「抗日もの」ではない。よくある抗日ものなら、モーナは「日本が俺たちに屈服を強いるなら」と言っているだろう。

そう、彼らの真の敵は日本ではなく文明。それも平和に共存しようとする文明ではなく、彼らを酷使して屈服させようとする文明だ。その根底には、原住民を見下し、「野蛮人に文明を与えてやる」というおごった考えがある。だからこそモーナは反発したのだろう。

日本の司令官である鎌田は、敵に毒ガスを使うと決めた後、「野蛮人に文明を与えてやったのに、俺たちを野蛮にしやがった」と漏らす。この台詞は、この映画の日本人と原住民の対立の構図を端的に表現していると思う。

「いくら酷使されているといっても、祖先の掟を理由に、無抵抗の女性や子どもまで殺すのは惨い」という見方もあるだろう。また、原住民の女性たちが食料を浪費しないために集団自殺し、自分の子どもにまで手をかけるシーンもショッキングだ。だが現代に生きる私たちの価値観で、彼らを批判することはできない。

霧社事件についてはこの映画で初めて知った。その後事件について調べたが、映画は実際の事件を脚色している部分も多いらしい。
例えば小島源治は、映画では妻子を殺されたことになっているが、実際は妻子は生き残り、彼の家族は誰も死ななかったそうだ。
それを映画では「殺された」ことにしたのは、事件前は原住民に礼儀正しく接するなど友好的だった彼が、事件後「復讐の鬼」と化したことの、理由付けがほしかったからか。それとも、人間の弱さを描きたかったからだろうか。
また、現代の価値観からは「裏切者」に見えるタイモ・ワリス。映画では少年時代からモーナ・ルダオと個人的な因縁があったことを描いたり、また小島に剣を向けて「俺たちが闘うのは義のためだ」と言わせるシーンを作ることで、「彼には彼の事情があったし、彼なりの正義感の元で闘った」と擁護しているように感じる。最後、モーナ・ルダオを先頭に戦士たちが虹の橋を渡るシーンでは、モーナのすぐ後ろにタイモ・ワリスも続いている。彼もまた「真のセデック」として虹の橋を渡ったのだ。映画はそう描いている。
それは感動的なシーンではあったが、正直、「虹の橋を歩く戦士たち」を視覚化するのはちょっとやりすぎのような気がしないでもない。特撮技術が稚拙なせいで、なおさら陳腐で滑稽に見える。実話を元にした骨太な歴史映画が、いきなり最後、「西遊記」に変貌したかのよう。だが最後にあのシーンがないとあまりにも救いがないと、制作側は判断したのだろう。

やりすぎと言えば、鎌田の「この、日本から遠く離れた台湾の山奥で、我々が百年前に失ったサムライ魂を見たのだろうか」という台詞も、ちょっと唐突すぎるし、臭すぎ。監督が、日本人に「サムライ」と言わせたかっただけのような気がする。

そして何に一番驚いたかって、モーナ・ルダオとタイモ・ワリスの言い争いを聞いた小島の子どもが、「俺たちの狩り場だって? この山はみんな日本人のものじゃないか!」と言い返すところ。まだ小学生ぐらいの子どもが、原住民たちの言語を理解してる!なんと賢い子どもだろう!

とまあいろいろツッコミたいところはあるものの、それらは全部どうでもよくなるほどの迫力ある映画で、一部・二部合わせて約5時間の長丁場をぐいぐい押しきられる感じで見てしまった。
これまで台湾映画ってこじんまりした佳作が多いイメージだったけれど、こんなに壮大な歴史大作も作れるんだという驚きも含めて、私がこれまで見た台湾映画のベストワンだ。(次は『KANO』を見る予定なので、早々にベストワンの座がひっくり返る可能性はあるものの)
私は野生動物が人間に狩られる場面はかわいそうで、映画とはいえあまり見たくないのだけれど、この映画は原住民たちが狩りをするシーンも当然出てくる。というか冒頭から、モーナが猪を狩るシーンで映画は始まる。初めはひたすら逃げていた猪が、傷つき、もう逃げられないと悟ったとたん、くるっと向きを変えてモーナに突進してくるシーンが印象的だ。これが実は後半、モーナたちが蜂起する展開の伏線になっている。「猪だって反撃するのに」と、モーナの蜂起に加わることをためらうタダオ頭目に、若者が苛立ったように言う。冒頭の猪のシーンがここにつながるのか!と、思わず膝を打ちたくなった。こういう細部まで計算されつくした演出が多いのも、この映画の魅力だ。

いやーしかしこんなに漢人の影が薄い台湾映画、もとい中華圏の映画は初めて見たかも(笑)。主役は台湾の原住民で、敵は当時、台湾を統治していた日本人。彼らの対立がメーンストーリーなので、台湾に住む圧倒的多数民族の漢人はほとんど画面に出てこない。
そして漢人たちがみなのっぺりした、いかにも東洋系の顔立ちなのに、原住民たちがなぜかみな彫りの深いイケメン(笑)。この映画の主役は原住民だから、イケメン揃いにしたのかと思いきや。実は実際に原住民の血を引く俳優や一般人を起用しているとか。で、現地に住む人の証言でも、台湾の原住民は東洋人離れした顔立ちで、白人のような顔立ちも少なくないらしい。
なぜそんな顔立ちなのかについては根拠もあって、台湾の歴史本によると、太古の昔、マレーシアなどの東南アジアの人間が台湾に渡ってきて、彼らが台湾の原住民になった可能性があるとか。またオランダ統治時代にオランダ人と原住民が混血した可能性もあるらしい。
ともかく、太古の昔から台湾に住んでいた原住民は、たかだか400年前に中国から渡って来た漢人とは全く別の人種なのだ。それを考えると、彼らが漢人とは全く異なった顔立ちなのも納得だ。台湾はもともと原住民の島なのだし、彼らを見て「漢人とは顔立ちが違う」と驚くことの方が、おかしいのかもしれない。

そして、映画の原住民たちはただ彫りが深いだけではなく、りりしい。彼らを「決して屈服しない英雄」として描く映画の演出も、彼らを実際よりりりしく見せているのかもしれない。
だが青年時代のモーナ・ルダオだけは文句なしに美形と思う。演じた大慶は実際に原住民の血が混じっているらしいが、
彼は東南アジアというより、北欧の血が混じっている感じ。ただ美形なだけではなく気品があって、「生まれながらの英雄」のオーラを放っているのが印象的だ。
この映画は一部と二部に分かれており、青年時代のモーナ・ルダオはほぼ一部にしか登場しない。(二部では回想シーンで一瞬映るだけ)
私は一部を見たときは「こんな映画見たことない。文句なしの名作」と感じたが、続いて見た二部ではいささかテンションが落ちた。戦闘シーンが多すぎて、よくあるアクション映画になってしまっている感じ。まあストーリーの展開上、二部が戦闘シーンがメーンになるのは仕方ないのだけれど。それでも一部を見た時に感じたような、「この映画ならでは」の魅力があまり感じられなかったのはどういうことか。思うに、「この映画ならでは」の魅力というのは、「セデックの崇高な魂」が伝わってくるような、神秘的なシーンでは。そしてその神秘性の一部に、青年モーナ・ルダオを演じる大慶の、この世離れした崇高なオーラもあったのではないだろうか。だから大慶がほとんど出てこない二部は、神秘性がやや薄めで、かわりに戦闘アクションはたっぷりめ。
中年になったモーナ・ルダオを演じる林慶台も決して魅力がないわけではなく、いかにも頭目という風格がある。が、私は初めて中年のモーナ・ルダオを見た時、これがモーナ・ルダオだと分からなかった。だって顔立ちといい、体型といい、青年時代の面影がまったくない。まあ顔立ちは、年を取るごとに苦悩が顔に刻まれていったら、ああいう顔に変化するのもおかしくはない。だが身長が10cm以上も縮むのはおかしいって(笑)。青年時代はすらっとした長身で足も長かったモーナが、中年になったらいきなりずんぐりした体型の短足になってるんだもの。違和感が半端なくて、これってキャスティングミスなのでは。何度も言うが、中年モーナ・ルダオに魅力がないわけでは決してない。ただ、青年モーナ・ルダオが成長した姿には見えないというだけで。
この映画ってちょっとミュージカル風のところもあって、原住民たちは何かにつけて歌ったり踊ったりして、それが楽しい。中年モーナ・ルダオも劇中で二度、単独で歌い踊るシーンがある。どちらもモーナの決意を示す重要なシーンなのだが、短足のせいかどこかドスドスした踊りになっており、それが土臭くて良い。良いんだけれど、これが青年モーナのようなすらっとした長身で長足だったら、きっと華麗な踊りになっていただろうなあ。そんな踊りも見たかった。

さっきから中年モーナのことを短足短足と酷い言いようだが、実は私は彼の一番の魅力はあの脚だと思っている。太く、筋骨たくましい脚が地面を踏みしめる時の存在感といったら! あの脚で燃えさかる炎を飛び越えながら、「死ぬまで闘え!我々は真の人だ!」と叫びつつ日本軍に襲いかかるシーンには血が沸き立った。
モーナだけでなく、他の男たちの脚も魅力的だ。原住民は冬であろうと常に腰から下はふんどしいっちょなので、「鍛えられた(ここがポイント)」男の太ももフェチにはたまらない映画だと思う。細くすらっとした脚、太く短い脚、むちむちとした脚など、とにかくいろんなタイプの脚が画面いっぱいに躍動している。ある意味、最高の目の保養映画だと思う。

この映画は中国でも高い評価を得ているが、公開時にはあまりヒットしなかったらしい。その理由をある中国人は映画レビューサイトに、「大陸の二つの敏感な話題に触れているから。一つは日本人、もう一つは台湾人」と書いていた。
映画を見た中国人の感想は様々で、レビューを読むと、この映画を中国産のよくある「抗日ドラマ」と同じ類いと見る人も少なくない。だがもっと別の見方をする人たちもいる。そのレビューの一部をここに紹介して、この記事を締めくくりたい。
「私は映画を見ながら考えた。セデック族をチベット族に、日本人の“文明的”な政策を、私たち漢人のチベットへの“改革”政策に置き換えられることを。霧社事件を、1959年のチベット蜂起と2008年のチベット騒乱に、モーナ頭目が言う“20年後には子どもたちが日本人になってしまう”を、ダライ・ラマが言う“チベット文化が50年後に絶滅する”に置き替えられることを。チベット政策は本当に変えるべきだ!」
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『ローマの休日』
『ローマの休日』

あまりにも有名すぎる映画って、意識しなくてもいろんなところでその映画の写真やストーリーを目にするから、見ていないのに「すでに見たような感覚」になって、意外と見ないままのことが多い。
この映画もすでにストーリーは知っていて、「ラストシーン、主人公二人が目と目を見合わしてうんぬん」とかいうのも知っていたから、「今さら見てもなー」とこれまで見るのを躊躇していた。だが先日見た、これも有名すぎる『七人の侍』が想像以上に面白かったので、「やはり名作は侮れない」と思い、『ローマの休日』を借りてみた。

ドロシー・ラムーアの名前が、なんと二度も出てきた!これが一番の驚きだった(笑)。この映画の撮影当時(1950年代)はドロシー・ラムーアがハリウッドの売れっ子だったことがうかがえて、なんとも時代を感じた。
私はドロシー・ラムーアがヒロインを演じる珍道中シリーズが好きで、だから必然的にドロシー・ラムーアにも親しみがある。オードリー・ヘプバーンのような大女優ではないけれど、だからこそ時代のあだ花的なはかなさがあって良い。
ドロシーについて語るとそのまま珍道中シリーズについて語り出しそうなので、話を強引に『ローマの休日』に戻す。一つだけ珍道中シリーズについて書くならば、私が高校の卒業文集に書いた文は、高校生活とは何の関係もない珍道中シリーズの感想文だった(笑)。もし何か事件を起こしたら、あの感想文がマスコミに晒されるかもと思うと、恐ろしくてとても事件なんか起こせない。

さて『ローマの休日』。だいたいのストーリーは知ってたつもりだったけど、細かい部分は知らなかったので、思った以上に楽しめた。グレゴリー・ペックがパリッとしたいい男すぎて、全然新聞記者に見えない(笑)。新聞記者ってもっとこう、常に寝不足でくたびれているイメージなので。それに対して、オードリー・ヘプバーンは本当にプリンセスらしく見える。でも一番魅力的だったのは川から上がった時の、ずぶ濡れになった姿。『ローマの休日』のオードリーといえばあのショートカットが有名なのに、皮肉にもそのヘアスタイルが崩れた時、濡れた髪が額にぴたっとくっついてる時がもっともきれいで、少年のような中性的な魅力を発散していた。この中性的な魅力はオードリーならではで、当時、それまでのハリウッド女優を見慣れた目にはいかに新鮮だったかが分かる。

ラスト、宮殿から歩き去るブラドリーが、名残惜しそうに、もう一度アンがいた方を振り返るシーンが印象的だ。だがもうそこにアンはいない。それが良い。あそこでもしアンが現れて、ブラドリーを追いかけてきたりしたらハッピーエンドではあるけれど、果たしてここまで語り継がれる映画になったかどうか。この映画は、二人の身分違いの恋が、結局はむくわれないからいつまでも心に残るのだろう。アンを思いながらゆっくりと宮殿を歩き去るブラドリーの、寂しげな、でもどこかさっぱりした表情がいい。どうせ初めから身分違いと分かっていたさ、彼女の事は忘れよう、と自分に言い聞かせているような。

しかしアンがソフトクリームのクリームだけ食べて、コーンを足元に放り捨てたのにはびっくりした。行儀悪いというか、もったいないというか……あれは「一般人とは違う、皇族ならではの非常識」の演出だろうか? それともイタリアでは普通のこと? ハトがたくさんいる観光地だから、コーンは捨てて、ハトに食べさせてあげるのだろうか。
そしてアンは帰国してから、ブラドリーに借りたお金を郵送したのか? これも気になるところである。
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『キリング・フィールド』
『キリング・フィールド』

映画の存在は昔から知っていて、できれば去年、カンボジアに旅行する前に見ておきたかった映画。旅行から約一年たって、ようやく見ることができた。マイク・オールドフィールドが手がけたテーマ曲が好きで、昔から何度も聞いて耳になじんでいたから、映画本編ではきっとこのテーマ曲が効果的に使われるのだろうと思っていた。だがいざ見ると、エンドクレジットで流れるのみ。本編では、映画の内容に似つかわしくない安っぽいBGMばかりが流れて、映画を台無しにしているように感じた。
安っぽいといえば、ラストシーンで唐突に流れる『イマジン』。感動シーンのはずなのに、シーンと曲が合ってなくて、なんだか安っぽく感じた。
だがあれはひょっとして「感動させよう」としてあの曲を流したのではなくて、歌詞の内容が、ポル・ポトが理想とした世界とかぶっているから? だからあの曲を流したのか? としたら、とっても皮肉がきいている。

80年代に作られた映画なのに、60〜70年代の映画のような荒い映像なのも、カンボジア紛争(70年代)のドキュメンタリーフィルムのようなリアリティを目指したからだろうか。
だがそれにしては、観客への説明が少なすぎる。私は事前にカンボジア紛争やクメール・ルージュについて予備知識があったからなんとか話についていけたが、何も予備知識がない人が見たら、「なんで子どもが大人を見張ってるの?」「なんで手のひらを見せたら殺されたの?」とチンプンカンプンなのでは。

また、これはわざとなんだろうけど、カンボジア人たちの話すクメール語には一切字幕がつかない。だから何を話しているのか全く分からない。唯一、英語を話すカンボジア人二人(プランと、彼を助けるクメール・ルージュの人)だけは、言語が英語なので字幕がつくという分かりやすさ。これは現地語を話すカンボジア人=主役のアメリカ人ジャーナリストにとって未知の存在、ということなのか。また「今、何を話しているのか」観客に分からなくすることで、主役のアメリカ人と同じ目線で映画を体験できるようにしたのかも。

後半、プランとともに逃避行をする子どもがかわいい。カンボジア人役で出ているキャストの大半が実はタイ人らしいけど、白人の子どもより東南アジアの子どもの方がダントツでかわいいと感じさせてくれる。もちろんその子どもにもよるだろうけど。

カンボジア紛争を描いた、実話が元の映画だから、もっと衝撃的なのではと思っていたけど、正直そこまでの衝撃はなかった。見る前の期待が大きすぎたのかも。それでもプランが無事脱出できたときはほっとしたし、後味は悪くない。だがDVDの解説で、プランを演じた俳優がこの数年後に殺されたと読み、一気に後味が悪くなった。クメール・ルージュに囚われの身から奇跡の生還を果たした人が、アメリカで強盗にあっけなく殺される。呆然とするほかない。
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『七人の侍』
『七人の侍』

この作品に限らず、ウン十年前の「古い」映画全てに言えることだが、「有名な作品だから」と、その作品一つだけ見ても、本当の凄さは分からないのではないだろうか。そうではなく、同時代の他の作品もいくつか見て、そこで初めてこの作品がいかに当時、衝撃的だったか。桁外れの作品だったかが、分かるのではないだろうか。
『七人の侍』も、これ一つだけ見ると今では当たり前になった撮影技法で、それほど衝撃は受けない。音質も悪く、叫ぶように話すシーンも多いから、何を言っているのか聞き取りにくい。最初に見終わったとき、台詞のほぼ半分は聞き取れなかった。だが見終わってからようやく、DVDの「設定」メニューで字幕付きが選択できると知り、2回目は字幕付きで見た。そしたら面白いのなんの。
いや、字幕なしで見た一回目も面白かったんだけど、「何言ってるかわからん」というストレスがたまって、それほど物語にのめりこめなかった。

タイトルは『七人の侍』だし、主役も侍たちだと思うが、私は侍よりも百姓たちに惹かれた。なかでもお気に入りは茂助。何かと折り合いの悪い利吉と万造の仲裁役で、常識人。娘の髪を切った万造を叱咤するなど、先を見通す力があって、村全体のことを考えられる度量の持ち主だ。
そんな茂助だからこそ、村の外れにある自分の家が見捨てられると分かったとき、侍たちに反発して独断行動を取ろうとするシーンが胸に迫るのだ。結局は勘兵衛に大喝されて家を諦めるのだが、その後、自分の家が野武士に焼かれるのを見て、「なんだ、あんなボロ屋!」と悔しさをこらえて叫ぶシーンが良い。そして騒ぐ妻や仲間を「持ち場に戻れ!」と叱咤する。地味で目立たない役だが、映画の中で着実に成長している。最後の田植えシーン、利吉や万造とともに、笑顔で太鼓を叩いているのを見てほっとした。

もちろん侍たちも魅力的だ。キリッとした顔つきの「いかにも侍らしい侍」ではなく、どちらかというと商人とか庄屋とかが似合うような、丸顔の俳優が多い。そんな丸顔の侍が五郎兵衛、七郎次、平八と三人もいて、しかもみんな温厚な性格だから、初めは見分けがつかなかった。が、字幕付きで見た二回目では、三人それぞれに魅力的だった。特に飄々とした平八が良い。事あるごとに菊千代につっこんだり、からかったりしていて、何かと菊千代との絡みが多い。だから闘いでは菊千代とのコンビで活躍するのかと思っていたが、闘いが始まる前にあっけなく死んでしまった。実際に闘うシーンが一度もなかった、彼はもっともかわいそうな侍だと思う。「三十人ほど野武士を斬ってみんか」と誘われたのに、結局一人も斬ることなく……「薪割り流」の剣術を見てみたかった。

だが、死ぬシーンがあっけないのは平八だけではない。普通、映画で主役側のキャラが死ぬ時はもっと劇的な演出するものだと思うけれど、この作品の侍たちは、死ぬ間際に顔がアップにならず、最期に何か言い残すこともなく、ただあっけなく死んでいく。銃声がしたら、次の瞬間にはもう倒れていて、そのまま死ぬ。頭や心臓に命中したならともかく、一発打たれただけで即死するか?とも思うし、そこはある意味リアルじゃないと思うけど、あのあっけない死に様が、妙にリアルに感じる。モノクロの荒い画質といい、まるで当時のドキュメンタリー映像を見ているようだ。
主人公である菊千代の死のシーンすら、あっけない。彼を慕っていた子どもたちがその遺体に群がって泣くとか、観客をもらい泣きさせる演出はいくらでもあっただろうが、あえてそれをしなかった黒沢監督の、リアリズムへのこだわりには恐れ入る。もう動かなくなった菊千代の体が雨にさらされるシーンは、死んだ瞬間、人が「モノ」になることをリアルに感じさせる。直前まで、あれだけ元気に闘っていた菊千代だけに、そのギャップが胸に刺さる。

■好きなセリフ
前半だと、
「拙者の望みは、もうちょっと大きい」。
勘兵衛が腕試しした侍が、誘いを断るときのセリフ。この「もうちょっと」という言い回しが良い。言い方も、口ごもったりして、ちょっと未練があるけれど無理してる感じがよく出てる。きっと腹が減っていて、でも空腹よりも侍のプライドが上回ったのだろう。

後半だと、
「二人」。
早朝、鉄砲を奪って戻って来た久蔵が勘兵衛に言うセリフ。自分の手柄を誇ることもなく、ただひとこと「二人」とだけ言い捨ててさっさと仮眠しようとする久蔵。それを聞いた勘兵衛もただひとこと「うん」。
「二人」「うん」ーー短いやりとりだが、久蔵のかっこよさ、そして勘兵衛と久蔵の信頼関係が見事に演出されている名シーンだ。
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『黒衣の刺客』
『黒衣の刺客』(原題『刺客 聂隐娘』)
2015.9.24 なんばパークスシネマ

見終わってまず思ったのは、「友達を誘わないでよかった」ということ。「カンヌ国際映画祭・監督賞受賞」の肩書きがあるから、他のアジア映画よりは、友達を誘える口実がある映画だった。だからしばらく会ってない友達を誘って、旧交を温めようかなとも思ったのだが、忙しくて結局誰も誘えず、一人で見た。
結果的に、それで正解だった。もし友達を誘っていたら、見終わった後、微妙な顔の友達に「ごめん、ここまでワケワカメな映画やと思わんかった」と謝っていたことだろう。そしてお茶しながら、友達から映画の内容について色々と質問を受け、だがそれらの質問に「ごめん、私もわからん」と答えるしかなくて、険悪な空気になっていたことだろう。とても旧交を温めるどころではない。デートムービーとしても不向きだろう。
つまり万人向きの映画ではないということだ。私のように、「音響設備の整ったスクリーンで、張震の声を聞いてるだけでうっとり」なんてミーハーなファンならともかく。また年に100本近い映画を見ていて、「ほう、こういう映画もありだね」と許容できるような、ディープな映画ファン以外にはあまりおすすめできない。

この映画の評価は両極端で、「是と非にはっきり分かれる映画」だと聞いていた。果たして私はどちらだろうと思っていたら、いざ見ると「是か非か」の判断すらできなかった。その判断も下せないほど、映画の筋が分からなかったのだ。だいたいの大筋はなんとなく分かるんだけど、細かい部分が分からなくて、「今、なんで泣いてるの?」「なんで怒ってるの?」という状態。自分の頭の悪さに絶望しつつ、事前に少しは、映画の時代背景について勉強しておくべきだったかもと思った。というのも、この映画はあえて前知識を一切仕入れず、プロアマ含めたレビューも一切読まず、予告編すら一度も見ずに映画館に行ったからだ。この前に見た『ブレイド・マスター』が前知識を詰め込みすぎて失敗したことがその理由で、真っ白な状態で映画を見たかった。そしたらわけが分からなかったという。
だからといって今から、この映画のレビューや解説を読んで、解答を探そうとは全く思わない。誰かに教えてもらうのではなく、後日DVDを見直して、この映画の筋や、「伝えたかったこと」を読み取りたい。時間はかかってもいいから、自分で映画から感じ取りたい。それまで自分の中で、数々の疑問を胸に抱き込んでいたい。そう思わせる映画だった。

つまり私はこの映画が好きなのだ。ここまでわかりやすさを排除した、巨匠のオナニー映画と言われても仕方ないような作品なのに、抗いがたい魅力がある。それが悔しいのだ。私は理解力の乏しい人間なので、何度も見なければ理解できないような映画ではなく、一度ですっきり理解できる映画が好きだ。なのにこの映画には惹かれる。認めたくないのに、なぜか魅了されてしまう。そんな、魔力のような魅力を放つ映画だと思う。叶うなら、ずっとこの映画の世界に浸っていたい。
だが映画としての評価は迷う。映画を娯楽と定義するなら、なおさら迷う。なのでこの映画についての私の評価は、「是か非か」ではなく、ただ「好」としておきたい。

いくら前知識を一切仕入れなかったといっても、「カンヌで監督賞を獲った」という知識だけはあった。だから「きっと凄い映画だろう」という思い込みはどうしても見る前に頭にあったし、見た後も、「わけわかんないけれど、それは私の理解力が足りないせいで、きっと凄い映画なんだ」という呪縛からは抜け出せていない。だがそんなこととは関係なく、好きなものは好きなのだ。これは理屈ではなく、感情なのだから仕方がない。

もしかしたら、無理に「筋を理解しよう」とか「テーマは何なのだろう」などと考える映画ではないのかもしれない。それよりも、隐娘がラストの決断に至るまでの境地、それをただ感じる映画なのかもしれない。

隐娘を演じる舒淇は美しかった。だが彼女も含めて、俳優は完全に物語を動かす「駒」になっていた。台湾を代表する女優と男優が主役だが、俳優の魅力を引き立たせるような、いわゆる「スター映画」とはほど遠かった。
それでも舒淇はまだ何度か顔のクローズアップがあったが、男主役である張震の顔は、とうとう最後までアップにならなかった。張震の映画で、彼の顔が一度もアップにならない映画を初めて見た気がする。それだけでもこの映画の特殊さが分かろうというものだ。
そうした俳優のクローズアップも含め、派手な効果音など、映画的な「わざとらしい」シーンがほとんどないので、映画を見ているというより、実際にその時代に居合わせて、そこで暮らす人たちの日常をのぞき見ている気分になった。
フィルムの粒状感も印象的だった。特に心に残ったのは冒頭の、モノクロのシーンだ。あの荒い映像は、まるで当時のドキュメンタリーの記録映画を見ているようで、恐ろしいほどリアリティがあった。できれば、あのまま最後までモノクロで通してほしかった。その後カラーになると、とたんに普通の映画になった気がした。カラーで見る中国の山水風景は絵のように美しかったけれど、あまり私の胸には響かなかった。
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『ブレイド・マスター』(原題『綉春刀』)

映画の前売り券を買ったら特典でついてくる生写真。しかし学生手帳に挟んで喜ぶような年齢でもないし、もらったところでどうすればいいのか分からない。できればクリアファイルとか、もっと実用的な特典がよかった…などと贅沢を言ってはいけない。

『ブレイド・マスター』(原題『綉春刀』)
2015.8.29 シネマート心斎橋


いきなりだが、私は『ブレイド・マスター』というカタカナ邦題が好きじゃない。ありふれた名前すぎて、いったい何の映画か伝わりにくいし。ブレイド・マスターで検索するとトヨタ車やスマホのゲームばかりひっかかるし。宣伝文句の“武侠アクション超大作”として売りたいがためにこの邦題なんだろうけど、それだとかえって見た人は「思ってたのと違う」とがっかりするのでは。
原題の『绣春刀』をそのまま邦題にした方がよかったのでは。文芸映画みたいなタイトルだけど、実際、武侠アクションよりも文芸映画よりの内容だと思う。「しゅうしゅんとう」とそのまま日本語で読めるのもいい。

と、のっけから文句で始まったが、別に本国で大ヒットしたわけでもなく、有名な賞を獲った訳でもなく、有名監督の作品でもないこの映画を、日本公開してくれたことには感謝したい。でもタイトルは『绣春刀』のままが良かったと思うよ(しつこい)。

【高評価、低興行】
まず初めに断っておきたいのが、私はこの映画に思い入れがあるということ。それも見た後ではなく、見る前から思い入れがあった。2014年8月に中国で公開された時、作品の評価は高かったものの、低予算なため宣伝不足で、上映する映画館の数も少なく、映画館にポスターすら貼られていない状態だったという。また、路陽(ルー・ヤン)監督がまだ若く、これが監督三作目。そしてその名前だけで客を呼べる絶対的なスターが出演しておらず、キャストが地味。(主演の張震や王千源は実力派俳優として認知されているが、客を呼べるほどのスターではないというのが中国での評価らしい)。
そうした様々な理由から、公開当初の興行収入は伸び悩んだ。「高評価、低興行」の代表的な映画として、記事にも取り上げられたほどだ。
それでも映画を見た人の口コミからじわじわと評判が広まり、最終的には制作費をペイできる「小ヒット」になったという。さらに好評を受け、続編の企画も進行中とか。
たとえ宣伝にお金をかけられなくても、すぐれた映画は、見た人がその感動を伝えることでヒットへとつながる。「高評価、低興行」といわれた映画は、その後「観客の目は節穴ではない」ことを実証した映画になったのだ。私はそこにドラマを感じ、注目していた。

【元ネタは司馬遼太郎】
路陽監督のインタビューによると、監督は司馬遼太郎の短編『沖田総司の恋』が好きで、この小説を元に映画の構想をふくらませていったという。確かに小説を読んでから映画を見ると、「なるほど」と思うところが多い。
ちなみに映画が中国で公開されたのは8月7日だが、この日は司馬遼太郎の誕生日でもある。偶然そうなったのか、それとも狙ってそうしたのかは分からない。もしあえてこの日を公開日に選んだのだとしたら、路陽監督に「この映画を司馬遼太郎に捧ぐ」という思いがあったのかもしれない。

この映画は、脚本も路陽監督が他の人と共同で書いている。彼が昔からあたためていたネタらしく、いざ脚本にするとかなり分厚くなってしまったため、一番面白い部分だけを映画にしたのだとか。そして映画の好評により、次は映画の前日譚を作ろうと計画中で、それがヒットすればまたその続編を作って、三部作にしたい意向だという。なにそのもろスターウォーズみたいな展開は。
でも確かに映画を見ると、「語られていないこと」が多くて、「前日譚が見てみたい」と思わせるつくりになっている。ひょっとしたら初めから狙ってそう作ったのかもしれない。としたらかなりの自信家である。

そんなわけで映画の制作や、中国公開時のエピソードに惹かれるものが多く、興味深くそれらの記事を読んでいたので、無駄に映画に詳しくなってしまった。見る前からそんなに詳しくなると、自然と期待のハードルも上がる。私の場合、ちょっとハードルを上げ過ぎてしまったかもしれない。

【真面目な映画】
で、ここからようやく感想に入るのだが、見終わってまず思ったのが「とても真面目な映画」だということ。お遊びシーンというか、無駄なシーンが全くない。お色気シーンも、笑えるシーンも、ラブシーンすら全くない。唯一、着衣のまま抱き合うシーンがあるくらい。とにかくテンポ良くサクサク進んで、最後まで飽きさせないんだけど、ちょっとテンポが早すぎて、まるでダイジェスト版を見ているような気分になる。余韻や情緒がないというか。やっぱり映画って、遊びのシーンもちょっとは入れた方が映画に「潤い」が出ると感じた。
アクションシーンも非常に真面目だ。ワイヤーやCGもほとんど使っていない(ように見える)。この映画のために特訓したという俳優たちが、ひたすら地道に立ち回りを頑張っている。ワイヤーやCGなしなので、武俠映画でよくある超人離れした立ち回りもない。空を舞ったり、妖術を使ったりもしない。だから地味っちゃあ地味なんだけど、殺陣の指導がいいのか、スピーディーで迫力がある。スローシーンもほとんどない。ただちょっとカット割りが多いかも。もうちょっと長回しで立ち回りを見てみたかった。

別にワイヤーやCGを多用する事が「不真面目」とは言わないし、この映画がワイヤーやCGを多用しないのは単に「予算がないから」というのもあるかもしれない。だがアクションでワイヤーやCGを多用されると私は萎える。それより生身の俳優がワイヤーに頼らずに、自分の力だけでリアルなアクションを魅せてくれる方が好きだ。

この映画のアクションが地味な好例に、主人公たちを偵察に来た刺客が逃げるシーンがある。武俠映画だとこういうシーンでは、刺客は逃げるために、敵に向かって口からもの凄い数の矢をいっせいに吹き出したりするんだけど、この映画では、刺客は近くに並べてあった竹をバラバラと倒して逃げて行く(笑)。じ、地味……。なんでそんなところに都合よく竹が置かれていたのかも謎だし。ああ、予算なかったのね……と妙にしみじみするシーンだ。

【“武侠アクション超大作”という宣伝に偽りアリ】
上の例でも感じたけれど、この映画は一応「武侠映画」にカテゴライズされているが、一般的な武侠映画のイメージとは違う。宣伝では“武侠アクション超大作”とうたわれているけれど、実際は「錦衣衛の下っ端たちの人間ドラマ」の方がふさわしい。
武侠映画につきものの妖術アクションやワイヤーアクションがないというのもその一つだし、主人公の錦衣衛三人組の描かれ方も、「ヒーロー」としてのそれではない。三人それぞれが人間臭い悩みを持っていて、その悩みを解決するために沈煉は、殺害を命じられていた魏忠賢と取引する。映画だと沈煉を演じる張震がかっこいいのでつい錯覚するが、現代に置き換えると、ようは下っ端の公務員が公金を横領するというストーリーで、かっこよさは微塵もない。むしろあまりにも馬鹿でみみっちくて、現代なら「公務員のくせに」と呆れながらその物語を読むだろう。そんな馬鹿な下っ端公務員を主役にしたこの映画は、いくら俳優が男前で、彼が身にまとう“飛魚服”と呼ばれる官服が華麗であっても、やはり一般的な武侠映画のイメージには当てはまらない。公金を横領した結果としての沈煉の悲劇も「自業自得」と観客に思わせる。むしろ兄弟たちが死んだのは沈煉のせいで、彼が災いの元凶じゃないかと。

だがそう思わせておいて、実は、趙靖忠から魏忠賢殺害のため選び出された瞬間から、彼らは殺される運命にあったということが、映画の最後に分かる。しょせん「虫けら(趙靖忠が彼らをそう称する)」である沈煉の取引や選択なんて何の影響もなかったという、乱世に翻弄される下っ端公務員たちの悲哀がこの映画全般を貫いている。

【義兄弟の絆】
こう書くとなんだか泣ける映画のようだが、私はちっとも泣けなかった。先に「武侠アクション超大作ではなく、人間ドラマ」と書いたけれど、実は人間ドラマとしても各人物の描写が足りずに、中途半端だからだ。
始めにも書いたがこの映画、話がテンポよく進みすぎてまるでダイジェストのよう。主役は錦衣衛の義兄弟三人なのだが、彼らがどういう身の上で、どうして義兄弟の契りを結んだのかが全く語られないまま、あれよあれよと彼らが窮地に追い込まれていく。映画の始めの方で、もうちょっとこう、「義兄弟の絆が感じられるシーン」や「日常の平和なシーン」があった方がよかったのでは。義兄弟の契りを結ぶシーンを、回想シーンで入れるとか。その方がよりこの三人に感情移入できて、終盤、彼らが見舞われる悲劇に胸を打たれ、兄弟の仇を討つ沈煉にカタルシスを感じられたのでは。

とはいえ、義兄弟の絆が感じられるシーンが、全くないという訳ではない。その「絆」をもっとも強く感じられるのは、皮肉にも兄弟二人が死んだ後、沈煉の趙靖忠への仇討ちシーンだ。映画では説明がないので分かりづらいが、沈煉は決闘前に自分の刀を地面に突き刺し、まず長兄の盧剣星が生前使っていた長刀で闘う。その長刀を趙靖忠に払い落とされると、今度は弟の靳一川が使っていた双刀で闘う。それもまた趙靖忠に払い落とされ、最後にようやく、地面に突き刺していた自分の刀を抜いて、趙靖忠にとどめを刺すのだ。この決闘では沈煉は終始劣勢で、やけに弱く見えるのだが、それは使い慣れていない兄と弟の刀を使っていたから。そこには「兄と弟の仇討ち」という思いがこめられている。だが例によってこの映画はそういうことをくどくど説明しないので、初見ではまず分からない。というか盧剣星、沈煉、靳一川の三人が、それぞれ違う刀を使っているということすら、初見では分かりにくい。

【二次創作が人気の理由】
いろいろ書いているとこの映画、真面目なつくりなだけに、なんだか非常にもったいない。武侠アクションとして見るとワイヤーも妖術もなくて地味だし、人間ドラマとして見ると、各人物の背景や、人物関係の描写が淡白で物足りない。ようはどっちつかずなのだ。
主役の三人だけでなく、脇役たちの背景もほとんど語られない。だからだろうか、展開がやや強引で唐突に感じられる。もっとも唐突に感じたのは丁修が終盤、いきなり「いいやつ」になって沈煉に協力する展開で、映画で語られなかった二ヶ月間にいったい何があったんだと。

そしてこの映画が中国の腐女子に人気で、二次創作が氾濫している理由もなんとなく分かった気がした。もちろんもっとも大きな理由はこの映画が「男たちの物語」で、男同士の愛憎まみえる関係や、「尻を売れ」みたいなそのものズバリのセリフがあるからなんだろうけれど。でも「多くを語らず、見る者に想像させる」作りであることも、腐女子の妄想をはかどらせるのだろう。丁修の唐突な改心を例にとれば、「あの二ヶ月間で、いったい沈煉と丁修の間に何があった。もしやこんなことが……」などという風に。

【字幕に不満】
沈煉と丁修といえば、日本語字幕についてちょっともの申したい。最後のシーン、礼を言う沈煉に対し、丁修は「礼はいい。俺も趙靖忠を殺すつもりだった」と、字幕ではそう言っている。だが実際は、丁修は「如果你没有杀掉赵靖忠,我会连你一块杀的」ーー訳すと「もしあんたが趙靖忠を殺さなかったら、俺はあんたも(趙靖忠と)一緒に殺してた」と返している。(※機械翻訳だから正しくないかも。でもだいたいこんな意味)
このセリフがあるからこそ、それまで穏やかな表情だった沈煉が眉をひそめるし、その沈煉にニヤリと笑いかける丁修に凄みを感じるのだ。そして沈煉と丁修は「趙靖忠への仇討ち」という共通の目的があったから一時的に協力しただけで、決して仲良しこよしになった訳ではなく、むしろ一触即発の関係ということが分かる。
なぜ丁修が沈煉を殺したいかといえば、弟弟子である靳一川の死、その元凶をつくったのは沈煉だという思いがあるから。でも一番の仇はやはり、靳一川を殺した趙靖忠。だから沈煉が趙靖忠を殺すのなら、まああんたは殺さないで見逃してやる。でももし趙靖忠を殺さなかったら、あんたも殺すつもりだったという丁修の思いが、あの短いセリフに込められている。そして丁修の、靳一川への思いも読み取れる、とても重要なセリフなのだ。だからこのセリフはきちんと、原文の意味を再現した字幕にしてほしかった。

だがそうやって沈煉を脅迫するわりには、前もって周妙彤と医者の娘を安全な場所に移動させておいたりとか、ちょっと手際よすぎじゃないか丁修。最後の彼のセリフと矛盾してるし、こういう強引な展開がこの映画、特に丁修がらみで目につく。

【愛すべきB級映画っぽさ】
中国では制作費が1億元以上の映画が「大作」と見なされるそうだが、この映画の制作費は3000万元だという。美術や衣装にお金がかかる時代劇としては、低予算といえるだろう。
だからだろうか、映画全体にただようB級っぽさがたまらない。まず、崇禎帝の衣装がしょぼい。「陛下」というセリフがなかったら、とても皇帝とは分からない。せいぜいそこらの文官にしか見えない。
魏忠賢が死んだ証拠として提出される、焼死体もしょぼい(笑)。B級ホラーかと思った。いや今どきB級ホラーでももうちょっとマシな焼死体を出してくるぞ。
とまあ、いちいち挙げていったらきりがないが、とにかく私はそういうB級ムードを愛おしく感じた。ああ、予算が足りない中で懸命に頑張ってるなあという感じ。なんせ撮影中に予算が尽きて、张震の撮影日数を減らしたというくらいだし。
しかし巨匠と呼ばれる監督の映画にばかり出演している印象のある張震が、よくこんな新人監督の、低予算の映画に出たものだ。別に監督の名前で映画を選んでるわけではなかったのですね。B級ムードただよう映画に出る張震というのも、なかなか新鮮だった。

【ツッコミどころ】
これはB級っぽさにもつながるのだが、ツッコミたくなるシーンがわりとある。最大のツッコミどころは、沈煉に右手首から先を切り落とされた嚴家の公子。個人的にこの映画でもっともかわいそうな人だと思うのだが、その右手首がその後、彼が拷問されるシーンで復活していた(笑)。しかも右手首を切り落とした張本人である沈煉が、何事もなかったようにその手首を鎖からほどいていた。気づけよ。しかも同じシーンで、嚴家の公子は沈煉に「君に手首を切り落とされた」とか言うし。なのにこのシーンで彼の右手首があることに、制作側も俳優もなぜ誰も気づかない。

続いて妓楼での、沈煉と趙靖忠の決闘シーン。互いに相手を殺そうと闘っていたはずなのに、沈煉は趙靖忠を階段下に突き落とした後、なぜかそのまま放置(笑)。追いかけていってトドメを刺そうよ。たぶん、あの時点ではまだ義兄弟たちが殺されていないから、沈煉としては趙靖忠を殺すまでやるつもりはなく、ただ周妙彤を彼から守りたいだけなのだろう。だがそうした沈煉の考えが分かりにくいので、見る方としてはツッコミたくなる。


待ちきれなくて、公開初日に見に行った初めての映画かも。前売り券を買ったのも何年ぶりだろう。

【俳優】
俳優の演技の善し悪しは、正直、私にはよく分からない。基本的にみな好演していると思ったが、なかでも張震、王千源、金士傑の三人は存在感があった。後で、この三人は映画メーンで活躍していると知って納得。他の俳優は初めて見る人ばかりだったが、ドラマメーンで活躍している人が多いと聞いてこれも納得。

●沈煉……張震(チャン・チェン)
私は正直、張震ってそんなに完璧に整った男前だと思わないのだが、この映画の彼はこれまでで一番「りりしく」見えた。時代劇の扮装が似合うことと、常に帽子をかぶっていることがよかったのだろう。広い額を帽子がいい感じに隠してくれていた。また顔に飛び散る血しぶきも、その顔をより引き立たせていた。張震は化粧映えならぬ「血しぶき映え」する俳優だ。
役柄もいい。「外面は冷酷、でも内面はピュアで情に厚く、女に一途」というキャラは彼の得意とするところで、『ブラッド・ブラザーズ −天堂口−』のマークもそんなキャラだった。報われない恋に身をやつすという役は『グランド・マスター』のカミソリにも共通する。こうして振り返ってみると、張震の演じる役ってわりとワンパターンかも(笑)。
なのでこの映画でも、演技面では「いつもと違う役に挑戦した」という驚きは特になく、安定の平常運転という感じ。義兄弟の真ん中という役割なので、兄の盧剣星に対してはすがるような目つきで「兄を慕う弟」になり、逆に弟の靳一川に対しては、何かと世話を焼く「頼れる兄貴」になったりと、相手によって表情を使い分けているのもさすがである。
主人公なのでかっこいい見せ場も多く、立ち回りの切れ味も鋭い(ように見える)。だが私がもっとも感じたのは、にじみ出る中年の色気だ。30代も半ばを過ぎ、若い頃に比べるとさすがに肌もたるんできたけど、それがかえって退廃的な色気をかもしだしてるというか。肉は腐りかけが旨いというか……!(ひどい。でも褒めてる)。とにかく若い頃にはなかった色気があって、特に趙靖忠との最後の対決、相手の腹に刀を刺し込むシーンの「はぁ…」という吐息があざとい。

●周妙彤……劉詩詩(リウ・シーシー)
この映画の彼女は多方面ですこぶる評判がよろしくない。なので見る前の期待のハードルはかなり下がっていた。そして実際に見てみたら、「なんだ、言われてるほど酷くないじゃん」と。
そこで私はあえて、劉詩詩を擁護したい。まず、劉詩詩は別に悪くない。脚本が悪い。なんというか、彼女に片思いしている沈煉の一途さ、健気さを引き立たせるために、周妙彤が犠牲になってる気がする。せめて周妙彤が怪我を負うのは肩ではなくて、足にしとけば。そしたら沈煉が周妙彤を背負って歩くあのシーンも、「足を怪我してるから仕方ないね」となるのに。肩を怪我した周妙彤を、同じく肩を怪我した(それも明らかに周妙彤より重傷の)沈煉に背負わせるから、見た者は「背負われてないで、自分で歩け」と突っ込みたくなるのだ。監督はたぶんあのシーンを、切ない愛の名シーンとして撮ったのだろうが、見る者の心に浮かぶのは切なさよりもヒロインへの苛立ちだ。

うん。劉詩詩は悪くない。ただ、沈煉によって12才で教坊司に送られた妓女という役柄には、あまり合っていないと感じた。この身分へと自分を堕とした沈煉に、表では当たり障りなく接しつつ内面ではひっそり恨んでいる、そんな複雑な女の業みたいなものが、劉詩詩からは感じられない。少女のように清楚で幼い顔立ちが、そもそも妓女に見えないのだ。まるで妓女のコスプレをしているようで。つまりキャスティングのミス。劉詩詩の責任ではない。
……と、映画を見ている間は感じていた。だが見終わると、やはりこの映画には劉詩詩でよかったという気がしてきた。基本、男だらけの物語で、陰謀と裏切り、血みどろの闘いが続く中、数少ない登場シーンで清涼な空気を吹き込んでくれる劉詩詩の存在は貴重だ。いわば物語の清涼剤的な役割で、医館の娘・張嫣を演じた葉青も、そういう理由でキャスティングされたのだろう。二人とも「成熟した大人の女」というよりも、清楚で可憐な少女という雰囲気だし。この映画にもっと大人の、色気あふれるゴージャス美女が登場していたら暑苦しかったかもしれない。
ただ、12才の周妙彤の登場シーン、あそこで劉詩詩とは別の子役を使うのなら、沈煉も張震ではなく、別の10代の俳優を使った方がよかったのでは。あのシーンの沈煉は恐らく18〜20才くらいの設定で、だから張震も若作りメークをしているのだが、どう見ても18〜20才には見えない。せいぜい20代後半くらい。なのであの場面、12才の周妙彤を見つめる沈煉がロリコンに見える。実際はあの時一目惚れしたわけではなく、その後じわじわ恋していったんだろうけれど。

という訳で、しつこいようだが劉詩詩は悪くない。ただ脚本が、周妙彤を沈煉の引き立たせ役にしてしまっている。劉詩詩はその脚本に忠実に演じている。自分を守って闘う沈煉をぼんやり眺めているだけなのも、両思いだった嚴家の公子が死んだショックを引きずっているからだろうし。それもこともあろうに沈煉が嚴家の公子を殺したというのだから、そりゃ沈煉を恨むだろう。張震が巧みに演じているので見る者はつい沈煉に肩入れするが、ふと冷静になると沈煉もけっこうKYである。女に好かれていない、むしろ恨まれているんだから、潔く身を引くのも愛だろという感じ。だがそれを言ったら物語が成立しないし。

余談だが、周妙彤は『ネバーエンディングストーリー』の幼ごころの君に似てる。

●盧剣星……王千源(ワン・チエンユエン)
安易にイケメン三兄弟にせず、長兄にこの人をキャスティングしたところにこの映画のセンスを感じる。いやー、実にいい味出してますお兄ちゃん。
次兄がクールで鋭い感じのイケメン、三男はかわいい系のイケメンで、普通なら長兄は落ち着いた優しい感じのイケメン(現代だったら眼鏡キャラか?)をキャスティングするんだろうけど、それってあまりにも安っぽく感じて私は萎える。それより決してイケメンではないけれど、背負ってきた人生を感じさせる王千源の深みのある演技が、この映画に風格と味わいを与えていると思う。

頭が切れて自信家の沈煉が兄と慕っているのが、見るからに人が良さそうなのほほんとした盧剣星という、このギャップもいい。盧剣星って見た目はトボケた感じだけど、あの沈煉が忠誠を捧げるくらいだから、実はかなりの剣豪で、そして人徳あふれる性格なのだろうと見る者に想像させてくれるのだ。

それにしても盧剣星の境遇と、そのささやかな夢は身につまされる。沈煉が魏忠賢の隠れ家襲撃に応援を呼ぼうとしたとき、盧剣星が彼を遮るシーンは、この映画でもっとも胸にしみた。百戸に昇格したくて、でもコネも金もなくて。だから彼は魏忠賢を殺す任務を「昇格のまたとないチャンス」と捉え、自分たち三人だけでやり遂げて、手柄を独り占めしようとする。が、チャンスどころか、それは彼ら兄弟の破滅への入り口だったという。

盧剣星が着ている錦衣衛の官服にも注目したい。下の弟二人と違い、彼の服だけ襟に当て布がつくろわれている。彼はそれだけ長い間この官服を着ているのだということが、この貧乏臭い当て布からうかがえる。だからこそ、百戸への昇格を焦っているのだと。この映画の、細部まで行き届いたこだわりが感じられる部分だ。

盧剣星の、この映画での描かれ方も切ない。けっこういい年なのに独身で、年老いた母と二人暮らし。また、下の弟二人には色恋ネタがあるのにこの人だけなくて、さらに下の弟二人にはそれぞれ一対一の決闘シーンがあるのに、この人だけなし。(魏延との一対一の決闘シーンは、撮影はしたけれど映画ではカットされたとか)
極めつけは処刑シーン。沈煉の罪を肩代わりして死んでいく涙涙の場面なのに、靳一川の亡骸を前に沈煉が嗚咽するシーンの、その合間に挟まれるカットバックで処理される。かわいそうすぎる(泣)。靳一川だけでなく、盧剣星の死亡シーンも個別にちゃんと見せてほしかったけど、それをやると沈煉が嘆き悲しむシーンが二回続くことになり、くどいと監督は判断したのだろう。

●靳一川……李東学(リー・トンシュエ)
童顔でかわいい顔立ちなのに、うっすらあごが割れてる。ケツあごなのにかわいいってすごい。三兄弟の末弟なのに一番背が高く、頬もぷくぷくしていて、三兄弟の中で一番健康そうなのに、肺病もち。色々とギャップがあって、それが魅力か。
短めの双刀の使い手で、その刀を片手でくるくると回す仕草がかっこ良い。できればもうちょっと活躍シーンが見たかった。

●趙靖忠……聶遠(ニエ・ユエン)
映画を見て驚いたのが、趙靖忠が予想以上に魅力的だったこと。強くて美しくて狡猾で、でも人間的な弱さも感じさせる、見事な演技だった。ドラマ「三国志 Three Kingdoms」の趙雲役しか知らなかったけど、ヒーローである趙雲よりも、悪役である趙靖忠の方がずっと魅力的に映った。
しかしまさか宦官がラスボスとは。しかも映画の中では丁修と一、二を争う強さだし。宦官がこんなに強くてアリなのか。しかし趙靖忠が妙に沈煉を殺すのをためらっていて、三兄弟で一人だけ生き残っても見逃してやったりしたのは、「実は沈煉が好き」という裏設定でもあるのだろうか。だって丁修に殺しを依頼するなら、相手はまずは靳一川じゃなく沈煉でしょうよ。
その一方で、彼は魏延が好きなのかも、と受け取れる描写もあったりして。

●丁修……周一圍(ジョウ・イーウェイ)
恐らく、武術の強さは登場人物中ナンバーワン。他ならぬ路陽監督がそう発言したという情報もある。闘いで不敗なのはもちろん、闘いで劣勢になる場面が一つもない。これは映画中で彼だけだ。沈煉とは闘いそうで闘わなかったけれど、もし闘っていたら、たぶん沈煉が負ける。そう感じさせる描かれ方だった。
それだけ強いのにチンピラ浪人で、師弟の靳一川からしつこく金をゆすり取っていて、だが根っからのワルというわけでもない。この丁修の存在が、この映画を単純な勧善懲悪ものにせず、物語に深みを与えていると思う。

●魏延……朱丹
個人的には劉詩詩よりも、この人の方が「なんだかなー」と感じた。テレビの人気司会者らしいけど、彼女が出てくるととたんに画面が安っぽくなる。まるでテレビのバラエティ番組のコントを見ているようで、萎えた。

●張英……喬磊
王千源に次いでいい味を出してたおデブちゃん。悪役なんだけど、愛嬌があって憎めない。特に沈煉が弓から放った救援信号を、とぼけた顔つきで眺めるシーンが秀逸。映画中、実は唯一の笑えるシーンかもしれない。
噂では、演じた喬磊は俳優ではなく、助監督が特別出演しているとか。俳優ではない人に出演させるとは。それだけ、張英のイメージにこの人がぴったりだったのだろう。その気持ちはよく分かる。顔のパーツが全部真ん中に集まった、この顔立ちは得難い個性だ。

【まとめ】
見る前の期待が大きすぎたせいで、見終わったら「うーん」と思う部分が多く、色々と欠点も挙げつらねたが、それでも私はこの映画が好きだ。だからこんな、無駄に長いレビューも書いた。好きな理由はやはり、とても真面目なつくりだということ。そしてそこはかとなく漂うB級っぽさ。それだけで愛すべき映画になるには充分なのだ。
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華氏451
※ネタバレあり。

『華氏451』
監督:フランソワ・トリュフォー/出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ/1966年制作

原作が面白かったので、原作を読み終えた次の日にさっそくDVDをレンタルして観た。
うーん。映画も悪くないんだけど、「本の魅力」を伝えることに関しては、やっぱり同じ媒体である小説の方が向いていたと思う。映画だと、主人公モンターグがどうして本にのめりこんでいったのか、ひとりの男をそこまで変える本の魅力とは何なのかが全く伝わってこないから、モンターグの心境変化がえらく唐突に感じる。まあ、決められた時間内にまとめるためにはどうしても原作のダイジェスト的になってしまうのは分かるんだけど、「なぜ、禁じられている本にのめりこんだか」はこの作品の核心だと思うから、そこは他の部分を削ってでも、もっと説得力のある演出をしてほしかった。監督がトリュフォーなだけに、なおさらそう思う。実はトリュフォーの映画を見るのはこれが初めて(たぶん)なんだけど、これ一作見ただけで「トリュフォーたいしたことないな」なんて軽卒な判断下しちゃいそうな自分がいる(笑)。

以下、とりとめのない感想を箇条書き。

○オープニングが斬新。文字によるクレジットはいっさいなく、かわりにナレーターが映画タイトルやキャストを読み上げていく、まるでテレビのニュース番組のような始まり方。冒頭から「文字」を徹底的に排除したこの演出で、一気に観客をかわいた映画世界にひきずりこむトリュフォーの手腕はさすが、というべきか。

○フェイバーさんが出てこなかった。寂しい。登場人物がはしょられるのは尺的にしょうがないとしても、この人がいないから、映画では「本の魅力」が充分に伝わってこなかったんじゃないだろうか。

○そして機械シェパードが出てこなかったのはもっと寂しい。当時の特撮技術では、機械シェパードを動かすのは難しかったということだろうか。

○60年代に作られた、近未来が舞台の映画。「この時代の人は、こんなふうな未来を思い描いていたのか」というのが分かって面白い。いわゆるレトロフィーチャー。未来的なんだけどレトロなインテリアや建築物がかっこいい。

○ファッションも、モンターグが着ている消防服は近未来的なんだけど、女性たちのファッションは未来的でもなんでもない、当時の英国トラッドのような気がする。カッチリしたタータンチェックのスカートとか、タートルネックとか。あ、でもスカート丈が全体的に短いのは当時の流行かも。着こなしているジュリー・クリスティのスタイルの良さもあるけど、そうした60年代ファッションがおしゃれで、真似したくなる。(ただしミニ丈はパス)

○主人公の奥さん(ロングヘア)と、本を愛する小学校教諭見習い(ショートヘア)。対照的な二人の女性が登場するけど、それがジュリー・クリスティの二役であることは、映画を見終わるまで気づかなかった。に、にぶい……。顔よりもファッションの方に目を奪われていたからかも。ちなみにショートヘアの方が似合ってたと思います。

○文字を覚えたての子どもじゃあるまいし、なんで声に出して本を読むんだモンターグ。映画的な分かりやすい演出とはいえ、これは突っ込まざるをえない。

○おばさんの秘密図書室を焼くシーン。署長がそれぞれの本のジャンル(小説とか哲学書とか)について厳しく批評するんだけど、それがいちいち的確なのがおかしい。「アリストテレス。深遠な本だ。読むと誰もが、他の人より賢くなったと思いこむ。人間はみな平等なのが幸せなんだ」とか。そして私もああいう図書室が自分ちにほしい。本に囲まれて暮らしたい。

○「本の人々」の集落が叙情的で、特にラストシーンが美しい。集落シーンにかなり尺を取ってるところを見ても、トリュフォーがこの作品でもっとも描きたかったのはこの「本の人々」ではないかと感じる。しかしもう寿命がつきようとしている老人から本を受け継ぐため、その内容を暗記させられている少年にはちょっぴり同情。自分が好きで、後世に残したいと思う本だからこそ暗記できるんじゃないかなあ。

○DVDの特典映像が充実している。原作者ブラッドベリのインタビューとか、メイキングとか(オオッ)しかし字幕がついてない!(ガクッ)
私は100円で借りたのでまだいいとしても、購入した人はかなり落胆しただろうな。しかもジャケットには、特典映像が字幕なしってことは書いていないらしい。それはちょっと不親切なんじゃないかと思うよユニバーサルさん。
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