何年たっても、まだ狂ってる。
Still Crazy After All These Years (Paul Simon)
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団鬼六とキリスト教

『鬼ゆり峠』を再読していたら「おや」と思った箇所があったので、本のレビューとは別の記事として書いてみる。

団鬼六の作品に時々出てくる、キリスト教関連の描写について。

 

団鬼六はミッション系の名門である、関西学院大学の出身だ。なので大学では、キリスト教の授業を受け、聖書を読み、学内のチャペルでの礼拝に出席するなどして、それなりにキリスト教の知識と教養を身につけたはず。そしてそれを後の作品に活かしていることが、幾つかの作品から読み取れる。

先に書いた『鬼ゆり峠』では、処刑されるため松林に引き立てられて行く菊之助の姿を、「屠所へ引き立てられる小羊のよう」と表現している。これは明らかに、菊之助を、十字架につけられるため引き立てられていくイエス・キリストに見立てていると分かる。「屠られるいけにえの小羊=キリスト」は、少しでもキリスト教に触れた人なら誰でもすぐにピンとくるキーワードだ。

私小説『美少年』では、もっとはっきりと「キリスト」という言葉が出てくる。「私」と別れ、全ての望みを失った菊雄が自棄になり、自ら淫獣たちに身を投げ出す姿が「少年キリスト像」のように見えたと、「私」に描写させているのだ。
また、私は読んだことがないのだが、これも代表作の一つである『肉の顔役』では、被虐対象となる美貌の母と娘は「敬虔なクリスチャン」という設定だとか。そして実際に聖書の言葉が、物語中で効果的に使われているそうだ。同じく『花と蛇』にも、敬虔なクリスチャンである女性が二人、登場するとか。

私は団鬼六のほんの一部の作品しか知らないが、それでもざっと思いつくだけでこれだけキリスト教と関わる描写があるのだから、探せば、恐らく他にももっとあるだろう。
上に挙げた例のうち、『肉の顔役』『花と蛇』での、「ヒロインが敬虔なクリスチャン」という設定はわりと分かりやすい。恐らく「敬虔なクリスチャン女性=聖母マリアのような清らかな女性」というイメージが彼にあり、そうした女性を陵辱することで、より読者の興奮を高めようという狙いだろう。他の官能小説やポルノ映画などでもよく見かける、修道院のシスター陵辱と同じ構図である。

『鬼ゆり峠』『美少年』の場合はどうか。この二作品では、悪漢達に陵辱され、殺される少年をキリストに見立てている。(菊雄は直接殺される訳ではないが、陵辱事件の二年後に自殺しているので、実質殺されたようなものだろう)
キリストは人類の罪を救うため、自ら犠牲になって十字架につけられた人物だ。『鬼ゆり峠』では物語の前半、菊之助が浪路を守るため、自ら犠牲になる形で悪漢達に捕らえられるシーンがある。そしてその結果殺されるのだが、それもふまえて団鬼六は処刑されようとする彼を「小羊」と表現したのだろうか。

もう一方の『美少年』には、菊雄が自己犠牲精神を発揮するようなシーンはない。だが彼は、自分を辱めている「敵」に対しても気遣いを示すのだ。このあたりは、十字架上で「父よ。彼らをお許し下さい」と神に祈ったキリストに、似ている部分がなくもない。(ちょっと自信ない)

何より特徴的なのは、菊之助にしろ菊雄にしろ、自分を責める醜いものたちに嘲られても、決して嘲り返さない、気高い存在として描かれている事だ。それを団鬼六は、「のしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず(ペテロ第一 2章23節)」、毅然とした態度で十字架刑に処せられたキリストに見立てているのではないだろうか。
醜いものたちにどんなに肉体は汚されようとも、決して汚されることのない気高い無垢な魂ーー。そんな少年を団鬼六は「小羊」「キリスト像」と表現した。そんな気がする。

ちなみにこの二作品、どちらの少年の名にも「菊」が使われているが、これは別に深い意味はないだろう。団鬼六は被虐対象となる主人公の名に「菊」の字を使うのが好きらしく、他の作品にも「菊江」や「菊代」という名のヒロインが登場する。『新 夕顔夫人』にも、再び「菊雄」という名の美少年が登場するし、あまりネーミングについてのこだわりはないっぽい。

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コート狂時代
 秋冬のおしゃれといえばコートだけど、私は自分でもアホかと思うくらいのコート好き。「コートを着る機会がない」という理由で、東南アジアなどの南国には住めないなーと思うくらいに。
いったい自分でも何着コートを持ってるのか把握してなかったんだけど、今日数えてみたら、なんと14着あった。春や秋に着る薄手のコートから、真冬用のダウンまで、バラエティに富んだ品揃え。でもブランドはわりと偏っていて、14着中ほとんどがマーガレット・ハウエルと、そのカジュアルラインのMHL。まあこれはコートに限らずで、油断すると頭の上から靴先まで、さらに腕時計から持ってるカバンまで全身マーガレット・ハウエルでトータルコーディネートしてる日 がわりとある。ブランド側の戦略にまんまとはまり過ぎである。

ハウエルのどこにそんなに惹かれるかはまた別の機会に書くとして、ここではコートについて。14着もコートがあるのは、お気に入りのコートはできるだけ長く着たいし、それなら複数のコートを交代で着た方が傷まなくていいよね、という理由からなんだけど、それにしてもいくらなんでも14着は多すぎ。呆れる。

いったいなんでそんなにコートをためこんだのか、果たしてそんなにコートが必要だったのか?と改めて見直して自分を戒めるためにも、コートの中でも特にお気に入りのものを10着(それでも10着…)選んでみた。

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私が買った初めてのハウエルのコート。見て分かるように、けっこう着古している。つまりそれだけお気に入りで、着用回数が多い。このコートがあまりにも私の理想にぴったりだったので、その後、コートといえばハウエルのものしか選ばなくなることに。

秋の薄手のコートといえば、私は断然トレンチコートよりステンカラーコート派。一応正統派のトレンチも持ってるけど、あまりにも似合わなくてほとんど着てない。なんせ、エポレットが絶望的に似合わないんだな私は。
それより極力飾りを省いた、シンプルなステンカラーコートが好き。ステンカラーが自分に似合ってるというよりも、トレンチほどには着る人を選ばないアイテムだと思う。

このコートは
ちょっとくすんだネイビーの色味といい、きわめてシンプルなデザインといい、ほんのり光沢のある上質な生地といい、まさに理想のステンカラーだ。

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ネイビーのステンカラーばかり着てると傷みが早そうなので、同じ時期にもう一枚、着回せる薄手のコートが欲しくて購入。ハウエルの黒いコートで、服屋ではトレンチとして売られていたけど、シングルボタンだし、エポレットもないし、限りなくステンカラーに近いデザイン。このコートだけは細見え効果を狙って、付属のベルトでウエストをきっちり締めて着ている。
このコート、なぜか首元にもベルトがついているんだけど、一度もしていない。それよりだらんと襟元にたらしている方が好き。だいたい首をベルトで締めるなんて犬じゃあるまいし。SMか。

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私が買ったコートの中で、いや服の中で、恐らくもっとも高い買い物だったマーガレット・ハウエルとマッキントッシュのコラボコート。ゴム引きのステンカラーで、色はカーキ。写真ではうまく再現できていないが、実際はもっと緑色が強く、カーキというよりくすんだオリーブ色に近い。このくすんだオリーブ色というのが、マッキントッシュにはないハウエルならではの色合いで、もうステンカラーは買わないつもりだったのに、この色に惹かれて清水買いした。タグがついた新古品を古着屋で買ったので、定価の半額以下だったけど。それでも私にしたら高い買い物だ。
片方の襟からたれてるチンウォーマーもお気に入り。実際にチンウォーマーをはめることはほぼないと思うんだけど、先に紹介した黒トレンチ同様、襟のところになんかぶらさがってるデザインが好きらしい。

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秋も深まり、寒さも増してきた頃に着たい、ハウエルとハリス・ツイードのコラボコート。これもハウエルならではのくすんだグリーンと、襟元にたれてるチンウォーマーに惹かれて購入。

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チンウォーマー同様、私のお気に入りのコートデザインに「フード付き」というのがある。このMHLのダスターコートも、フードがついたデザインに惹かれて購入。色はカーキ。こうして並べると、本当におんなじ色味のものが多くて呆れる。

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で、フード付きコートといえばやっぱりコレ。いわずと知れたグローバーオールのダッフルコート。ダッフルについての私の思い入れは「ダッフルコートの存在意義とは。」を参照していただくとして。探しまわってようやく見つけたこのコートはヘリンボーン生地なので、同じダッフルでもメルトン生地のものより大人っぽい感じがお気に入り。
これを初めて着たときは「いくらヘリンボーン生地とはいえ、やっぱりダッフルってけっこう重いな」という印象だった。だがそれを上回る重量のコートがあったのだ。そしてそのコートもやはりダッフルだった。

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私の持ってるコートの中で、間違いなく最重量であろうMHLのダッフル風コート。色はネイビー。
「ダッフル風」としたのは、フードもチンウォーマーもないからだ。正統派のダッフル好きからはあまり認めたくないコートだろうけど、わざと肩を落として着るドロップショルダーのデザインと、丸襟がかわいくて購入。実際、着ると体を包み込むような丸っこいシルエットになってかわいい。
だが重い。メルトン生地で、しかもロング丈なのでずっしりくる。グローバーオールのダッフルが軽く感じるくらいに。
生地がぶあついからあたたかさは充分。真冬でもいける。でも真冬はやっぱり、ふだんの通勤にはもっぱら軽くてあたたかいダウンコートを着ていた。じゃあこのコートの存在意義ってなに。「かわいい」しかない。でもそれだけで充分と思うくらいにかわいいコートだ。だから今後も重さを我慢して着る機会をつくりたい。(なんか間違ってる気がするけど)

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真冬用のウールコートなら、私はPコートよりもダッフル派。なのに「一着くらいPコートがあってもいいよね」と余計なことを考えて、ハウエルのカシミヤ入りPコートを購入。色はチャコールグレー。軽くてあたたかくて、真冬のおでかけスタイルにぴたりとはまる。


真冬に着るダウンコートも、やっぱり好きなステンカラータイプを選びたい。というわけで購入したMHLの定番、ダウンのステンカラーコート。色はベージュ。 ダウンなのにすっきりと着膨れしないデザインがお気に入り。……のはいいんだけど、すっきりした見た目を重視しているのか、中に入ってるダウンが少なめで、ダウンコートのわりにはそんなにあたたかくない。

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そこで去年の冬は、もっぱら新しく購入したこのダウンを着ていた。MHLのショートダウンで、色はくすんだピンク。私がピンクのコートを着るなんて!と自分でも驚くが、暗いコーデが多い冬にはいいアクセントになっている。

こうして振り返ってみると、やっぱりどれも好きなコートで、多すぎるからといって捨てられるようなものは一着もない。だから今後はもう、よっぽどでない限り(真冬にシベリア行くとか)買い足さないようにしないと。この記事は私の「もうコート買いません」という誓約書がわりでもあるのだ。

でもまたいつか、ぽちっと衝動買いしちゃいそうな気もする…(ぼそっ)。
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孫権考
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左から孫権、劉備、曹操。孫権の切れ長の目が、チャン・チェン演じる孫権に似ていなくもない。


前回の記事にも書いたけれど、この前の中国旅行で買った「歴代皇帝トランプ」。買ってから分かったけれど、中国の全ての皇帝を扱ってる訳ではなかった。それでも私は満足である。なぜなら、呉の皇帝として孫権のカードもあったからだ。
一部では「曹丕、劉備は皇帝を名乗る根拠があるけど、孫権には根拠がないじゃん」とも言われているし。確かに「他の二人が皇帝に即位したから自分も即位した」感が強い孫権だけど。でも中国で売っている皇帝トランプで扱われてるってことは、中国では孫権はきちんと皇帝として認められてるってことの証明だよね?(必死)でもこのトランプ、魏の皇帝として初代皇帝の曹丕ではなく、在位中は皇帝に即位しなかった曹操が登場しているから、単に「有名な三国志の英雄を登場させてみました」というミーハーな選出なのかもしれない。

とか書くと私がいかにも三国志に詳しそうだけど、実は全く詳しくない。でもその乏しい知識の中から語ることを許していただけるなら、三国の君主の中ではもちろん、全登場人物の中でも孫権が一番好きだ。別に「碧眼カッケー」とかいう理由ではない。(そもそも孫権が碧眼と書いているのは演義だけで、正史には孫権が碧眼という記述は一つもないはず)。
私が孫権に惹かれるのは、彼はあの時代にあって唯一、「中原を征した者が天下をとれる」という漢民族の固定観念から解き放たれた、先進的かつグローバルな人だったと思うからだ。
「孫権は曹操や劉備のように、領土を広げようと中原にうって出ず、自国にこもってばかり。天下統一の野心がない」というイメージが孫権にはあり、それが彼の不人気の一因でもあると思う。
だが「中原にうって出ないから、天下統一の野心がない」という批判そのものが、「中原=天下」という固定観念に凝り固まった古い頭の持ち主であることを露呈しているようなもの、と私には思える。そして孫権の凄さは、そんな古い観念にとらわれずに、中原だけではなくもっと外の世界、遥か海の向こうにまで視野を広げていた点にある。台湾、ベトナム、日本などに彼は多大な興味を持ち、実際に部下たちを船で送り出して外交していた。こんな君主は、三国時代には恐らく孫権だけだったのではないだろうか。その先進性に私は惹かれる。漢王朝の領域内におさまらず、もっと広い世界を見ていたスケールの大きさに。

もう一つ、孫権の不人気の理由として考えられるのは、「魏と蜀の間を行ったり来たりするコウモリ」というイメージだろう。
確かに演義などを読むと、蜀と同盟を結んだかと思えば魏に臣従して蜀を攻撃したり、かと思えばまたしれっと蜀と同盟を結んだりと、ブレまくりである。まったく節操がないというか、いったい何がしたいんだオマエって感じ。って、もちろん呉の存続のためにこのような「風見鶏」外交をしているのである。それは分かっていても、やはり他国、特に蜀のファンからすると「卑怯」という印象になるのは仕方ないだろう。だが私からすれば、外交と戦争を巧みに使い分けて生き残った孫権こそ乱世の英雄であり、理想的な君主だと思える。

え? 晩年の老害っぷり? あの程度で私の孫権への評価は揺るぎやせんよ。若い頃ならともかく晩年だから、「さすがにもうろくしたのかな」というフォローもできる。それにちょっと中国史をひもとけば、晩年の孫権より酷い皇帝なんかいくらでもいるし……って、「下には下がいる」「あれよりはマシ」みたいに相対化して孫権をフォローするのはさすがにみっともないか(笑)。
ま、要するに私は三国志ファンというよりも、ただの孫権ファン。晩年だってついひいき目で見てしまうのさ。

■蒼天賛美
孫権についてのイメージでよく聞くのは、「何を考えてるのかよくわからない」「つかみどころがない」というものだ。前述した風見鶏っぷりも、そんなイメージをもたれる要因の一つだろう。だから他の二人の君主、たとえば劉備が「仁君」、曹操が「冷酷」という一般的イメージがあるのに対し、孫権にはこれといった固定イメージがない。しいて言えば……「地味」?(笑)
そういえば私のケータイに入っている、ゲーム「上海」の三国志版。プレイヤーは3人の君主のうちから一人を選んでプレイするのだが、普通なら「劉備、曹操、孫権」の3人から選ぶと思うでしょ。なのにこのゲームでは「劉備、曹操、董卓」から君主を選ぶという……。なんで孫権やなくて董卓やねんと突っ込みたいが、要は孫権よりも董卓の方が「残虐非道」というキャライメージがはっきりしているので、制作側からしたらゲームを作りやすいのだろう。
ゲームだけではない。不人気かつ「つかみどころがない」ということもあって、これまで三国志を題材にした小説や漫画では、孫権は常にしょぼい扱いだったように思う。

だがそんな孫権の「つかみどころがない」イメージを「ミステリアスな魅力」へと昇華させ、またコウモリ外交は「家長として、家(呉)を守るため」という好意的な理由付けをして、これまでとは違う斬新・かつ魅力的な孫権像を描いてくれたのが『蒼天航路』だ。
もちろんこの漫画の主役はよく知られているように曹操であり、孫権は曹操とはもちろん、準主役といえる劉備と比べてもかなり出番は少ない。他の二人より一世代年下なので、登場そのものがかなり遅いため、出番が少ないのは仕方がない。だがその「一世代年下」というハンディともいえる部分を逆手にとって、作者の王欣太氏は彼を「成長する君主」として見事に描ききっている。そしてこれまでの三国志作品では主に「卑怯」「小物」という個性しか与えられなかった孫権が、この作品では年上の曹操、劉備と堂々と渡り合える「大物」としていきいきと描かれている。それが何よりも画期的だと思うのだ。これまで、孫権をここまで「大物」に描いてくれた三国志作品があっただろうか? 
この作品を読んで分かったことは、私は別に孫権が脇役なのが嫌なんじゃないんだ、ということ。別に劉備、曹操が主役で、孫権が脇役でもいい。嫌なのはえらく小物に描かれることなんだってことが、『蒼天航路』を読んで分かった。それが分かったのも、この作品の孫権が脇役にもかかわらず、魅力ある大物として存在感があったからこそ。王欣太アッパレなり。

というかそもそもプロの作家なら、曲がりなりにも「三国の建国者の一人」である孫権を、それなりに大物に描くことは当然かもしれない。なのにそれを怠り、孫権を小物または空気にしか書けなかった作者たちは、王欣太の爪の垢を煎じて飲めと私は言いたい。
「んなこと言っても、原作である演義からして孫権は空気なんだからしょうがない」と反論されるかもしれない。確かに演義、そしてそれを元に日本人向けに書き下ろした吉川英治の小説でも、孫権は影が薄い。だがあれらは「パイオニア」なのであれでいい。それくらい、ゼロから一つの作品を生み出すのは大変なことなのだ。
だがそれらパイオニアを元にした二次作品まで、元の作品そのままの孫権像をただなぞっているだけなのは、作家の怠慢ではないか。いやしくもプロの作家なら、もうちょっと斬新な孫権像を見せんかい!と常々思っていた私にとって、『蒼天航路』はまさに溜飲が下がる思いだった。

■張震賛美
『蒼天航路』と同じく、「思ったより孫権の扱いが良かった作品」に、映画『レッドクリフ』がある。まあ『蒼天航路』も『レッドクリフ』も、ぶっちゃけ事前に「孫権がけっこういい扱い」だと聞いていたからこそ読んだし、見たんだけどね(笑)。セコいとか言うな。何の予備知識もなしに三国志作品読むと、凹むことが多すぎるんじゃ孫権ファンは。

話を『レッドクリフ』に戻す。この映画の孫権は、『蒼天航路』とはまた別の意味で画期的だった。それは主にビジュアルにおいて。正史に胴長短足とか顎が角ばってるとかの記述があることから、これまでの孫権ってどちらかというと「ごつい」イメージで描かれることが多かったと思う。
だがこの映画の孫権は細い。顔立ちも細面だし、体型もすらっとした細身。性格もそんな外見に合わせて繊細で、だがその眼光の鋭さは、芯の強さと気性の激しさを秘めていることを伺わせる。「偉大な父や兄にコンプレックスがある」という設定自体は別に画期的ではなく、よくある孫権のキャラ設定の一つだけど、外見が違うとこうも従来のイメージと変わるものかとびっくりした。だって妙に応援したくなるんだもん、この映画の孫権って。初登場シーンでは孔明にガン飛ばしてて、観客に「俺様キャラか?」と思わせといて、次のシーンでは悩める普通の青年になってる、そのギャップがいい。君主としてナメられまいと、公の場では強がってるんやなーというのが分かって、母性本能くすぐられる。
この絶妙の「ヘタレかわいい」魅力は、脚本もさることながら、演じた俳優の容姿と演技力によるところも大きい。ぶっちゃけ、「父兄コンプレックスで自分に自信が持てず、優柔不断」というこの映画の孫権のキャラを、もし他のモブ顔の、そして演技力に乏しい俳優が演じていたら、さぞかしイライラするような孫権になっていたと思う。ほど良く野性味を秘めた端正な顔立ちで、かつ演技力のある張震(チャン・チェン)が演じたからこそ、観客は悩む孫権に感情移入できたし、葛藤を乗り越えて開戦を決意したシーンには「よっしゃ!」と拍手を送りたくなるのだろう。

「なるべく英雄たちの当時の年齢に合った俳優を起用した」というジョン・ウー監督の試みも、結果的に孫権の個性をより引き立たせている。この映画の主要人物たちの中で、孫権は誰よりも若い。対して、曹操と劉備は明らかにおじさん(むしろ初老)。それは史実なのだから当然で、赤壁の戦い当時、孫権は26才で、かたや曹操と劉備は立派な中年。のはずなのに、これまでの三国志の漫画やアニメでは、曹操と劉備は初登場時から年を取らず、いつまでも若々しく描かれることが多かった。(そして孫権は初登場時からなぜかおじさん顔)。なので読者はともすれば「曹操、劉備、孫権は同世代」と勘違いしがちだったと思う。
だから『レッドクリフ』を見て初めて、「孫権は曹操、劉備より一回り若い」のだと知った人は意外と多いのではないだろうか。ジョン・ウーが登場人物を史実どおりの年齢で再現させたからこそ、「親世代の曹操、劉備と堂々と渡り合う若き君主」という孫権の個性かつ魅力が引き立った……いや、正確にはこの映画では「堂々と渡り合う」までいってないか(笑)。まだ青臭い感じだったし。でも将来は大物になりそう、というスケール感は出てたと思う。

■再評価、きてる?
そういう訳で私はこの映画で初めて「史実通りに若々しい孫権」に出会ったのだが、そうした描き方をしている映像作品は他にもあった。最近は三国志映像化にもリアリズムの流れが来ているのだろうか、この映画とほぼ同時期に作られたドラマシリーズ『三国志 Three Kingdoms』でも、孫権は君主たちの中でダントツで若かった(そしてイケメン)。約10年前に、同じく中国で作られたドラマシリーズ『三国演義』とはえらい違いだ。あのドラマでは孫権役を、曹操役や劉備役と同じく、おじさん俳優が演じていた。なのでドラマの孫権が史実通りに若い、これは画期的な変化だと思う。まあおじさんとはいえ、『三国演義』の孫権はなかなかダンディーで私は好きだが。しかし子どもだった孫権が、再登場したらいきなりおじさんになってるってのはどーよ(笑)。その間の青年時代どこ行った。

実は『三国志 Three Kingdoms』については、私はまだ全作品を視聴していない。だが聞くところによると孫権はなかなか利発、そして腹黒というキャラ設定らしい。
ほー。今度の孫権は腹黒ですか。これまた『蒼天航路』とも『レッドクリフ』とも違うキャラ設定だ。これこそが孫権というキャラの幅広さ。『蒼天航路』に『レッドクリフ』に『三国志 Three Kingdoms』、三作品ともそれぞれ別人のようにキャラが違う。それでいて、「そういう孫権もアリだねえ」と受け入れられる。それも「孫権といえばこういうキャラ」という固定イメージがついていないからこそ。それゆえ作家たちは、「自分なりの孫権像」をいきいきと描くことができるのだ。

……とまとめてみたものの、実は私は『三国志 Three Kingdoms』の孫権だけにはやや違和感がある。それは彼が、「呂蒙を暗殺する」というストーリーになってるらしいから。孫権といえば「家臣思い」というのも魅力の一つと思っているので、その孫権がこともあろうに呂蒙を暗殺はないわー。ありえん。まあ先にも書いたように私はこのドラマシリーズを全て見ていないので、今の段階ではまだ全否定はできないけれど。
だが一つだけ分かることがある。かつて曹操が魯迅の言葉をきっかけに中国で再評価されたように、もしや最近になって孫権の再評価が進んでるのでは……ということだ。特にご当地・中国において。というのも『レッドクリフ』も『三国志 Three Kingdoms』も、孫権役の俳優は、作品中一番と言ってもいいイケメンだった。イケメンに演じさせる=孫権を高く評価してる、と考えるのはさすがに単純すぎるだろうか。でも顔だけじゃなく、扱われ方もけっこういいと思うんだよね。まあ、どちらの作品も脇役には違いないんだけど、過去の作品での孫権の扱われ方からすればかなりマシ。

■「脇役」でこそ輝く?
孫権の再評価といえば、最近は日本でも孫権主役の作品がぽつぽつ出てきてるようで嬉しい。
だがその一つである『みんなの呉』は、ネットで公開されている番外編を読んだ限りでは、私にはどうもイマイチだった。ちゃんと本を買って本編を読みたいという気にならない。なんでや。
もう一つ、『赤壁ストライブ』という漫画も孫権主役のようで、これはまだ未読。だって孫権主役の作品なんて貴重だから、すぐ取り寄せて読む、という行為がもったいなくてできない(笑)。ショートケーキのイチゴを最後にとっておくような感じ? 読むまでのワクワク感をなるべく長く楽しみたいというか。

ただ、思うのは孫権って、単独で主役にすると魅力が半減するタイプのような。単独で主役になるより、「複数いる主役の中の一人」もしくは「重要な脇役」という扱われ方の方が、より孫権の魅力が引き立つと思う。つまり他の人物との対比で、より光る人物だと思うのだ孫権は。『蒼天航路』で私がもっとも孫権が魅力的だと思うシーンが、劉備との問答シーンというのも、それを表していると思う。
ちなみに『レッドクリフ』で私がもっとも好きな孫権のシーンは、彼が刀で机を切り落とした後、その刀を鞘にカシャンと収めて「周瑜!」とええ声で号令するところ。ここは、その直前の虎刈りシーンからの流れが秀逸。「どっちが君主じゃ」ってくらい周瑜からスパルタ教育を受けているヘタレな孫権のシーンが直前にあるからこそ、ようやく覚醒した孫権が、「君主」として威厳を持って周瑜に命令する姿が引き立つのだ。それまで周瑜を兄と慕う「弟」だった孫権が、今度は君主として周瑜に対するっていうね。そのメリハリが素晴らしい。チャン・チェンの威厳のある声もいいし、もちろん演出もいい。派手な合戦シーンばかり取り上げられがちな映画だけど、実は脚本もよく書けてると思う。

願わくば続編として、また同じ俳優を使って他の合戦も映画化してもらいたいな。無理かなあ。でもまた別の作品で、「ほう、こう解釈してきたか」と唸らされるような、斬新で魅力的な孫権に出会えるかもしれないし。先にも書いたように、作家ごとに色んな解釈の孫権像に出会えることが、孫権の魅力でもあるし。まだ私が出会ってない作品もたくさんあるだろうし、これを読んでる方で「この作品の孫権はなかなかいい」ってのがあったら、ぜひ教えてくださいませ。
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「この街の空気感を守りたい」。ウラなんばと川端屋商店
先日、飲食店経営雑誌の仕事で「日本橋ビアホール」を取材した。その取材記事は現在発売中の雑誌に掲載されているが、ページ数の関係で元の原稿よりだいぶ短くなっている。誌面の掲載スペースが限られているので仕方ないのだが、川端社長がなぜ、この店を出店したのかということなどがバッサリ削られている。そこで掲載スペースを自由に使えるこのブログに、元の原稿を全文掲載することにした。

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 「この街の空気感を守りたい」
日本橋ビアホールがウラなんばの一等地に出店した理由とは。


「牛高豚低(ぎゅうこうとんてい)」という言葉もあるほど、大阪人は豚よりも牛が好き。だからこそ豚に可能性を感じて、豚にこだわった店を出している」。そう話すのは、大阪市内で7店舗を展開する川端屋商店の社長、川端友二氏だ。その言葉通り、2003年オープンの1号店「焼とんyaたゆたゆ 天下茶屋 本店」を皮切りに、焼とん店、豚の骨付きリブが名物のワインバル、骨付き豚カルビ店と、業態こそ変われど一貫して「豚料理」の店を出し続けている。
「肉は豚オンリー」の会社だからできる、部位の有効活用によるコスト削減の利点もある。2011年オープンの4号店「ワインバル・ヤ リブリン ウラなんば本店(以下リブリン)」は、既存店では使わずに捨ててしまう部位「リブ」を活用しようと、そのリブをワインと相性のいいオーブン焼にすることで「名物」としてヒットさせた。と同時に、それまで焼とん店だけの展開だった同社初のワインバル業態として、会社を大きく成長させるきっかけにもなった。

そんな同社の最新店が、2014年にオープンした「日本橋ビアホール」だ。看板料理は豚のスペアリブをカリッと揚げた「骨付きポークフライ」(1本380円)で、夜だけで一日約40本が出る。そのポークフライにかぶりつきながら「ビールをぐびぐび流し込む」が同店のコンセプトで、一日約75杯のビールが出る。6種類揃う生ビールは特注の有田焼のドラフトタワーから注ぐなど、ビアホールらしい雰囲気づくりも工夫しているが、外観や内装、インテリアは決して本場のドイツ風ではなく、「西洋かぶれした戦前の日本人が、背伸びしてつくったビアホールをイメージ」(川端社長)。そこであえて古いすりガラスの戸やタイルなどを外観に設置し、店内には裸電球や昔の電車のつり革をぶら下げている。そうしたレトロな雰囲気もお客に受け、10坪の小バコながら月商450万円を売上げる繁盛店となっている。

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店ではなく
「人に会いに行く」のがウラなんば


「日本橋ビアホール」は、今「ウラなんば」として注目されている、南海なんば駅の北東エリアに立地。ウラなんばとは一般的に「なんばグランド花月の裏手、千日前商店街のアーケードがとぎれた辺りから、堺筋までの一帯を指す」(川端社長)。実はこのエリアへの出店は、川端屋商店としては4店目。だが4店目にして初めて「ウラなんばを意識した店を出した」と川端社長。「それまでの3店は、特にウラなんばは意識せず、どの街に出しても繁盛するような『おいしいものを食べて、楽しい時間を過ごしてもらう』店づくりをしてきた。だがこの店は黒門市場の向いの角地で、ウラなんばの東玄関とでもいうべき一等地。そこが空き家になったとき、もしここにチェーン店が入ったらウラなんばの空気感が損なわれる。そう感じてここに出店を決めた」。
ウラなんばに集中出店することでこの街を盛り上げてきた「立役者」の川端社長らしい、街への思い入れが感じられるエピソードだ。だがその社長も、難波のホテルのフレンチ部門で働いていた20代の頃は、「このあたりは立ち寄りたくない場所だった」と振り返る。当時は風俗店がメーンの街で、そういった店の客引きも多かったからだ。「でも自分で店を経営するようになってから行くと、そのいかがわしさが逆に面白く感じた。大人になって、いかがわしさを面白がる余裕ができたんだと思う」(川端社長)。
元々「繁華街から外れた方が面白い」と考えていた川端社長は、2007年、同社の3号店「大阪焼トンセンター」をウラなんばへ初出店した。飲食店経営者には人気のないエリアだったので家賃も安く、坪家賃は1万7千円。それでいて、ターミナルのなんば駅から徒歩5分と、きっかけさえあれば人の流れを呼び込める立地だった。
だが「周りには僕と同じ30代が経営する飲食店がほとんどなく、また僕自身、行きたいと思える店が周囲になかった」(川端社長)。そんな時に勇気づけてくれたのが、このエリアの象徴である味園ビルだ。一般的には大宴会場のあるビルとして有名だが、実は二階に個人経営の個性的なバーが複数テナントで入っており、若者が集まるディープスポットになっていた。
「たまに同年代のお洒落な女性がこの街を歩いていて、見るとたいてい味園ビルの二階に行く。それを見て、僕もこの街に同年代のお客を引っ張ってこれると確信した」(川端社長)。
この街の可能性を信じた川端社長が取った手段が、周囲に同年代が集う飲食店を増やすことだ。「周囲に店が増えた方が、相乗効果で自分の店も繁盛する。あの街に行ったら食べたい店が必ず見つかる、という風にしたい。お客が『あの店に行こう』じゃなく『あの街に行こう』となるようにしたかった」(川端社長)。
だがなかなか周囲に同年代を対象にした飲食店ができないため、「自分で店を増やすこしにした」(川端社長)。ウラなんば1店目を出してから2年後の2009年、2店目の「焼とんyaたゆたゆ 難波千日前」をオープン。すると一年後、星本幸一郎氏が鉄板居酒屋「鉄板野郎」をオープンして人気を集め、川端社長が望んでいた「相乗効果」で、次第に街に若者がやってくるようになった。また当時の大阪府知事、橋下徹氏がこの地域の風俗店を次々に排除したことも、飲食店には追い風になった。風俗の客引きが減ってお客が歩きやすくなり、「街の空気が変わりつつある」と感じた川端社長は、2011年、ウラなんば3店目となるワインバル「リブリン」をオープン。「鉄板野郎」の星本店主と二人で「ウラなんば」というネーミングを考え、口コミで周囲に広めていったのもこの頃だ。そうして次第に飲食店が増えていき、それに目を付けた地元の人気情報誌が、2012年に「ウラなんば特集」として大々的に紹介。街の認知度が飛躍的に高まった。
昨年12月には朝日新聞にも「飲食店急増 ウラなんば」という題で取り上げられるなど、その認知度は全国に広がりつつあり、それに応じて家賃も上昇。昨年オープンの「日本橋ビアホール」は坪家賃3万円と、7年前の「大阪焼トンセンター」の約2倍に。それだけ人気が上昇しているエリアといえる。

こうして今や全国的にも注目されるスポットとなったウラなんばだが、その商圏としての特徴は独特だ。「あの店に行く、じゃなくて、『あの人に会いに行く』お客が多い」と川端社長。例えば日本橋ビアホールなら、「日本橋ビアホール行こか、じゃなくて、ナオキ(店長の下の名前)んとこ行こか、と言ってウチに来る」。その理由としてまず、小バコの店が多いこと。そのため店員とお客の距離が近く、すぐ仲良くなって下の名前で呼び合うようになるという。
小バコなのでお客同士の距離も近い。一人で飲みに来た人でも、すぐ隣の人と仲良くなり、「味園ビル知ってる? 面白いから行こか」などと誘って、次の店に行く。で、帰る頃には5人連れになっている光景をよく見るという。
「とにかくこの街が好きで、面白い店を『教えたがる』お客が多い」と川端社長。お客が次々に面白い店を探し、それを他に伝えていく。そうしてお客と店、お客とお客がつながっていった結果、「一人でふらっと入った店でも、たいてい知り合いが飲んでいる」のがウラなんばの特徴になっており、街に人を呼び込む求心力にもなっている。川端社長が最初に目指した「『あの店に行こう』じゃなく『あの街に行こう』となるようにしたかった」が今、まさに実現しているというわけだ。だが最初に街を開拓したのは川端社長や星本店主かもしれないが、今ではお客自身がこの街を盛り上げていく原動力になっている。
それを象徴しているのが、3年前から毎年開催されているウラなんば文化祭だ。イベントパスを購入して約60店の参加店舗を飲み歩く「街バル」だが、他の街の街バルと違うのは、企画・主催しているのが商工会議所や商店街ではなく、一般のお客だということだ。彼らが無償で主催している理由はただ一つ、「この街が面白いから」。川端社長自身も、ウラなんばで店を運営する魅力を「毎日が街バルのようで楽しいから」と話す。

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川端社長とともに、この一帯を「ウラなんば」と名付けた星本店主の店「鉄板野郎」(ビルの2階)


そんなウラなんばの一等地に、川端社長が「この街の空気感を守りたい」と出店した「日本橋ビアホール」は、必然的にウラなんばの空気に合わせた店となっている。自店の利益だけでなく、「ウラなんばの魅力をもっと紹介できるような、街のホットステーションになってほしい」という川端社長の思いもこめられているため、店のつくりも工夫されている。
その一つが、ユニークな席レイアウトだ。前にこのビルに入居していたカフェはスタバを真似たようなお洒落な店で、キッチンはクローズドだった。また大通り側の壁はガラス張りで通行人から丸見えだったが、お客が通りに背を向けて座っているため、閉鎖的な雰囲気だったという。その物件を居抜きで借りた川端社長は、まず中央のキッチンを覆っていた壁を取り払い、オープンキッチンに。そのキッチンをカウンターが囲み、さらにその周囲をテーブル席が取り囲む席レイアウトにした。テーブルが窓側にあるため、通行人からテーブルと、そこに座るお客の顔がよく見える。また窓側のテーブルの真上には、目を引くアンティークな照明を吊るした。これには「外から見たとき、店がショールームのようになるように」(川端社長)という狙いがある。通りに背を向けるのではなく、通りに顔を向けるオープンな席レイアウトが、「店とお客の距離が近い」ウラなんばの空気に合うと判断したからだ。

外パリッ、中ジューシーな
ポークフライが看板

料理はどれもビールに合うよう濃いめの味付けだが、「お酒のアテ」ではなく、しっかり作り込んだ料理が多い。豚にこだわってきた同社らしく、この店の料理も肉は全て豚で、料理ジャンルは「豚肉料理」。看板に打ち出している「骨付きポークフライ」は、広東料理の鶏の唐揚げをベースに、鶏を豚に変えて作った同店のオリジナルだ。スペアリブに岩塩と、隠し味の蝦香醤(エビジャン)をまぶし、外はパリっと、中は柔らかくなるよう調整して揚げている。ひと口かじるとジューシーな肉汁があふれる食感と、隠し味の蝦香醤が効いた「やみつきになる味」(川端社長)が人気だ。プレーンの岩塩の他にもグリーンマスタード、ケイジャンスパイスなど6種類のフレーバーを用意し、飽きさせないよう工夫。「ビールと一緒に食べてもらいたいので、注文から早いと2分、遅くても8分で提供できるようにしている。
ランチでは「ポーク100%ハンバーグ」(ご飯、みそ汁、コーヒー付きで780円)を名物に打ち出し、チーズやおろしポン酢など4種類を用意。一番人気はプレーンの「醤油オニオンソース味」で、一日30食が出る。豚肉100%にこだわったハンバーグは豚肉本来の美味しさを味わえるよう、胡椒以外の調味料は使わない。お客からは「やわらかい」「牛に比べてあっさり食べられる」などの声が多く、好評だ。

接客は、ウラなんばの他店と同様、店員とお客の距離が近く、互いに下の名前で呼び合うなどフレンドリー。だがお客の居心地を良くするため、常に気を配っている。「接客で一つだけ大切にしているのは、音を聞くこと」だと杉本直樹店長は言う。店内は常にラジオの音やお客の声で賑やかだが、そんな中でもドアが開く音、箸が落ちた音、グラスをテーブルに置く音などを聞き逃さないようにしているという。例えばグラスを置く音が多く聞こえたら、「そろそろグラスが空くな」と察して、次の注文を聞きに行く。「お客に声をかけられる前に、常に先手先手で行動いるようしている」(杉本店長)。また看板のポークフライは肉にかぶりつく食べ方なので、口周りや手が汚れる。そこであらかじめおしぼりをテーブルに用意しているが、その後もポークフライを頼む数に合わせて、お客に言われる前にさりげなく何度もおしぼりを交換している。一見、友達のようなフランクな関係に見える店員とお客だが、そうした細やかな気遣いが、同店をウラなんばの中でも人気店にならしめているといえる。

■DATA
日本橋ビアホール
大阪市中央区日本橋1-20-8
電話/06-6649-0254
経営/川端屋商店


看板料理の骨付きポークフライは、異なるフレーバーが7種類。スナック菓子のカールを砕いてまぶした「カールスモーキー」が一番人気だ。「ビールとスナック菓子は合う」ことから考案したという。

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ランチメニューも豚にこだわった「ポーク100%ハンバーグ」(ご飯、みそ汁、コーヒー付きで780円)。ご飯はおかわり自由で、ご飯のかわりに小ビールも選べる。週末は3割くらいがビールを頼むという

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「ウラなんば」の角地に立地する同店。10坪の小バコなのに「ホール」としたのは、「人が集うこの街のイメージに合うから」(川端社長)。

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取材時は、この街を舞台にした映画「味園ユニバース」の公開前だったため、映画のポスターが店前にさりげなく置かれていた。


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レトロな外観や内装は「わざとらしくならないよう気をつけている」と川端社長。その秘訣はレトロな素材をただ飾るのではなく、「道具」として使うこと。古い茶箱もボトル棚として使用

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「ドイツ風のビアホールにしたくない」という川端社長は、ドラフトタワーも有田焼のものを特注。コンセプトは「西洋かぶれの日本人の店」。
豚料理専門の店らしく、ちょこんと置かれた
豚がかわいい。



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神様がくれた時間「第二章・ファン」(その5)
「第一章・エル」で書いたように、私は最初に飼ったペットの最期を看取れなかった。それどころか、その「死」をはっきり知ることすらできなかった。すでに老年になっていたエルは雪が降る寒い冬の日、突然家からいなくなり、そのまま二度と会うことはできなかった。
確かにペットの死は辛いし、その遺体を見たくないという人もいるだろう。私の友達も「今、飼ってるチワワが死んだら、私の目に触れないようにひっそり埋葬してほしい」と言っていた。
考え方は人それぞれだが、私はちゃんとこの目でペットの遺体を見て、その「死」をはっきり確認したい。それは辛い経験だろうけれど、生きたのか死んだのか分からないまま、二度と会えないよりもずっとマシだ。
そう思いながら、私はファンと暮らしていた。いつしかファンは8才になっていた。うさぎの寿命は一般的に7〜8才と言われている。だからファンも、見た目はそんなに変わらないけど、年齢的にはりっぱな「おばあちゃん」だ。
そして私は相変わらずファンを庭に出しっぱなしにしていた。日が暮れる頃になってようやく、「そうだ、ファンを外に出してたんだ」と思い出し、慌てて庭に出てファンを探したことも何度かあった。すでに日はどっぷり暮れており、外は真っ暗。そしてファンは黒うさぎ。真っ暗な庭で、黒いうさぎをすぐに見つけることは困難だった。幸い、庭といっても狭いので、なんとかファンを見つけて抱きかかえ、家の中にいれることができたのだが。
そんな放任主義的な飼い方をしていた「ツケ」がやってきた。高齢になっていたからだろうか、ファンは柔らかい糞でお尻を汚す事が多くなり、そのたびに私は濡らしたタオルで拭き取っていた。その時はそれで充分清潔になったと思っていたが、濡れたお尻のまま日中、庭に出ていたことで、ファンは病気になってしまった。なんだか弱っている、と気づいたときにはもう遅かった。自然の世界では補食される側の動物であるうさぎは、体調不良を隠す。それは人間に飼われているうさぎも同じで、だからうさぎが見るからにぐったりしている時は、体調不良を隠せないほど……つまり、それほどまでに状態が悪化しているということなのだ。

病気に気づいたきっかけは、半年前に毛布を呑み込んだときと同じで、食欲が落ちたことだった。すぐかかりつけの動物病院に連れて行ったが、獣医はファンの病気の原因を見つけることができなかった。獣医はファンを診察して、「歯も伸びていないし、なぜ食欲不振になるのか分からない」と言い、とりあえず腸の動きを良くする薬をくれた。私は不安な気持ちで、仕方なくファンを家に連れて帰った。
だがその翌日、ファンの体調はさらに悪化した。
あいにくその日は日曜の夕方だった。かかりつけの動物病院は閉まっている。そこで日曜日も診療をしている他の動物病院にファンを連れていったが、そこの獣医はファンを診て、もう手遅れだと感じたのだろう。本当は全身麻酔をしての手術が必要なレベルだったが、表面的な応急処置だけして、その日の診察は終わった。そこの病院は初めての受診だったので、受付の女性は「ファンちゃん」と書かれた診察カードを作ってくれたが、その時ですら、私は「この診察カードを使う事は今後二度とないだろう」と感じていた。もう手遅れだと感じて応急処置しかしない獣医と、それを知らず、いつもと同じようにとりあえず診察カードを作る受付。そのギャップが皮肉だった。

家に連れて帰っても、ファンはますますぐったりするばかり。だが私にはどうすることもできなかった。こういう時、飼い主は本当に無力だ。できることといえば、ただファンの頭を撫で続けながら、夜が明けるのを待つことだけ。明日の朝、真っ先にかかりつけの動物病院に連れて行くから、それまで持ちこたえてほしいと祈りながら。
私はファンに添い寝して、その頭を撫で続けながら夜を過ごした。本当に、長い夜だった。今度こそファンはだめだというあきらめの気持ちと、いや、あの毛布を呑み込んで吐き出すという離れ業をしたうさぎだから、今度もきっと生き延びるという希望が、ごちゃまぜになっていた。もう深夜になっていたが、とても眠れる心境でなはく、ただファンの頭を撫でながら夜が明けるのを待った。このまま徹夜でファンの頭を撫で続けるつもりだった。ファンは相変わらずぐったりしていたが、それでも私が頭を撫でると、いつものように歯をカチカチ鳴らして「気持ちいい」と伝えてくれた。

そうしているうちに長い夜も終わり、窓の外が白じんできた。そして私は早朝の1時間ほど、ファンの隣で眠っていたらしい。ふと目を覚ますと、ファンはまだ生きていた。よかった、朝まで生き延びてくれた。ファンはもう自力で立つこともできない状態だったが、それでも私はわずかな希望にすがって、かかりつけの動物病院に連れて行った。
2日前に連れて行ったときはファンの病気を見抜けなかった獣医も、今回は私の訴えにより、すぐに病気の原因を悟った。と同時に、その顔に「もうこのうさぎはだめだ」というあきらめの色が宿った。
ファンは午前の診察時間が終わるのを待って、昼から出術することになり、病院に預けることになった。本来なら、ずっと病院にいて……は病院から断られるとしても、徒歩五分の場所にある自宅で、待機しているべきだった。だがあいにく私はこの日、昼から取材の仕事が一件入っていた。今思えば、その仕事は他のライターや編集者に代わってもらって、家で手術が終わるのを待っているべきだった。そうしたら、病院から緊急の呼び出しがあったときも、すぐ病院に駆けつけられるのに。
あれからもう七年になるというのに、今でもずっと、悔やんでいる。なぜあのとき、ファンを病院に残して仕事に出かけてしまったのか。
あの頃、私はまだフリーライターとして駆け出しで、「その日になって取材をドタキャンなんかできない」と思い込んでいた。
それに、きっと心のどこかで、ファンが危篤だと認めたくなかったのだと思う。現実を受け入れられず、「このうさぎが死ぬわけない。だから仕事に出かけても大丈夫」と、無理にでも思い込もうとしたのだろう。
ファンは診察台の上で、動物看護師に背中をなでられていた。私はそんなファンに「また後で会おうね」と心の中で声をかけた。するとファンがその声を読み取ったのか、急に私のもとに向かってこようとした。すぐに看護師さんに抱きとめられたが、そのときのファンの姿が、今も瞼に焼きついて離れない。
そしてそれが、私とファンのこの世での永遠の別れになった。

私は後ろ髪を引かれる思いで、病院を後にした。取材先は電車で二時間くらいかかるところで、行きの電車の中でも、また仕事中も、病院に残してきたファンのことが気になって仕方がなかった。取材が終わった頃、ちょうど病院でもファンの手術が終わったらしく、獣医から携帯に電話があった。その時、私は千里中央駅にいた。獣医から「手術は無事終わった」と聞いて安堵した私は、「今後、家で流動食を強制給餌させる必要があるかもしれないから、千里中央のペットショップで、シリンジを買った方がいいでしょうか」と獣医に聞いた。すると電話口の向こうで、獣医が戸惑っているのが分かった。数秒の沈黙の後、獣医は言った。「シリンジを買う必要はないと思います」
その言葉で、私は全てを悟った。とりあえず手術は終わったものの、強制給餌する「期間」があるとは考えられないような、厳しい状態であることを。
だがとりあえず、まだファンは生きている。私は一刻も早くファンのもとに行こうと、すぐに電話を終わらせ、地下鉄に乗った。電車の中では、ずっと「もう携帯が鳴りませんように」と願っていた。だがもうすぐ天王寺に着くという頃、携帯が鳴った。携帯の液晶画面に表示された「○○動物病院」の文字を見て、全身から血の気が引いた。予感通り、それはよくない連絡だった。
「ファンちゃんの様態が急変しました。すぐ病院に来てください」
受話器の向こうから聞こえる動物看護師の声。それはショックではあったが、同時に「こうなることは始めから分かっていた」という、諦めのような気持ちも湧いてきた。そこから電車を乗り継ぎ、ようやく動物病院に着いたのは、電話から約一時間後だった。その一時間の間に、私は覚悟を決めようと努力していた。きっともう、ファンは生きてはいないだろう。だから遺体を見ても取り乱さないようにしようと。

だがいざ動物病院について、もう動かなくなったファンと対面したとき、こらえきれずに私は泣いた。ファンは目を見開いたまま、段ボール箱に入れられていた。まだ体にはほんのりと温もりが残っていた。「すうっと、静かに息を引き取った」と獣医は言った。死に目に会えなかった私を慰めるために、そう言ったのかもしれない。
私はあふれる涙をぬぐおうともしないで、ファンが入った段ボール箱をかかえ、獣医に礼を言って病院を出た。そしてそのまま、父が運転する車で火葬場に向かった。いったん家に連れ帰ろう、という気持ちは起きなかった。きっと、ファンの死がまだ現実として受け入れられなくて、このまま遺体を見ているのが辛くて、一刻も早く火葬したかったのかもしれない。
夕方の六時頃だったが、まだ空には明るさが残っていた。火葬場へと向かう車の後部座席で、ファンの遺体を抱えながら、私は激しく自分を責めていた。なぜあのとき、重体のファンを病院に残して、仕事なんかに行ったんだろう。ペットが飼い主より先に死んでしまうのは仕方ないとしても、せめてその最期を看取りたかった。エルのときと同じように、今度もまた、私はペットの最期を看取れなかった。いや、エルのときはその「死」すらはっきり確認できなかったから、今、こうしてファンの遺体を抱くことができるのは、まだマシなのかもしれない。それでもやはり悲しかったし、最後に見た、診察台の上で私の元に向かってこようとするファンの姿が目に焼き付いて離れず、ファンに申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうだった。

私たちが向かった市立の火葬場は「人間用」だったが、1000円を払えば動物の火葬もしてくれる。ペット霊園ではないので個別の火葬ではなく、「お骨上げ」も、骨を持ち帰ることもできないが、骨は他の動物の遺骨と一緒に、動物慰霊塔に収めてくれる。そのときの私はそれで充分だった。もう18時だったので、今日の火葬は全て終わり、明日の朝、他の動物と一緒に火葬することになった。私は箱に入ったファンの、まだかすかに温もりが残る体に手を置いて、「この子を神様の元に送ります」と祈った。そしてその箱を市の職員に渡して、家に帰った。
だが帰宅して、いつもファンを放していた庭と、いつもファンがその木陰でくつろいでいたツツジを見たとき、どうして火葬場にファンを残してきたのかと、急に後悔が押し寄せてきた。ファンのお気に入りの場所だったツツジの木の下に埋めてやりたい。私はとっさに、さっき後にしたばかりの火葬場に電話をした。だが、いったんあずけた動物を連れ帰るのは無理だった。「こちらで、動物慰霊塔に遺骨をおさめて供養しますから」と、電話に出た市の職員は諭すように言った。私はしぶしぶ了解して電話を置き、それからベッドに突っ伏して再び泣いた。
2007年6月11日のことだった。なぜはっきり覚えているのかというと、その日のダイアリーの6月11日の欄に「ファンの命日(8才)16:00すぎ」と書かれているからだ。その記述を、私はそれを書いた日から六年後に見つけた。あの日はファンを亡くした悲しみと自責の念で押しつぶされそうになっていたが、それでもこうしてダイアリーに記録を残していることに、私は少し驚いた。
そして今、こうして七年前のあの日のことを思い出しながらこれを書いていることにも、私は少し驚いている。あのときは、まさか将来、こんな風に文章にすることができるなんて思いもしなかった。それはやはり「時間薬」のおかげだろう。それと、ファンの後に飼ったもう一匹のうさぎとの別れを経験したことで、ファンとの別れを、いくらかは客観的に振り返ることができるようになったのかもしれない。
それでもやはり、今でも「ファンを看取れなかった」という後悔が消えることはない。最後の最後に、飼い主の責任を果たせなかった。これからもずっと、その後悔を抱えたまま生きていくことだろう。だがそれもまた、「飼い主の責任」なのだと私は思う。

続く
 
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神様がくれた時間「第二章・ファン」(その4)
あれは、ファンと再び暮らし始めてから4年くらい経った頃の、冬のことだった。毎年、冬になるとケージの床に毛布を敷いていたのだが、何を思ったのかその冬は、引っ張ればすぐ毛が抜ける毛布を敷いた。これは危険だった。なぜなら雌うさぎには、実際に妊娠していなくても、出産に備え、子うさぎのために寝床をつくろうとする習性があるからだ。だから毛の抜けやすい敷物を敷いたりすれば、その毛を抜いて寝床を作ろうとして、その際に毛がのどにつまることもある。
だが私はそれに思い当たらず、あったかくしようとして、ケージに毛の抜けやすい毛布を敷いた。すると何日か後の夜、ファンが突然食欲をなくした。好物のにんじんを口元に持っていっても食べない。これはただごとではない。
うさぎは常に何かを胃に入れていないと、即、命が危険にさらされる動物だ。なのでこんなときはすぐ病院に連れて行かなければならないのだが、あいにく夜遅くて、かかりつけの病院は閉まっていた。明日の朝一番に病院に連れて行こう。そう思ってその夜は布団に入った。

私はファンのケージを自分の部屋に置いていた。ふと深夜、目をさましてケージを見ると、ファンがしきりに何かを口から吐き出そうとしていた。すぐにベッドから出てファンの口の中をのぞくと、のどに何やら黒いものがつまっている。それをつかんで引っ張りだすと、なんと10センチ弱ぐらいの細長い「織物」が出てきた。黒や白の毛が絡み合ってできたその「織物」は、ケージの床に敷いてある毛布と同じ色、素材だった。つまりファンが飲み込んだ毛が胃の中でくっついて、こんな織物になっていたのだ。
こんな大きな織物がのどにつまっていたのか。そりゃ、えさが食べられないわけだ。驚きながら、さっきは食べなかったにんじんを口元に持っていくと、今度はファンはコリコリとそれを食べ始めた。続いてペレットも食べた。これでひとまず安心だ。
翌日、動物病院に、ファンののどから引き抜いた「織物」を持って行くと、獣医さんも驚いていた。うさぎがこういうものを吐くのはかなり珍しく、これまで聞いたことがないらしい。
うさぎは生物学的に、犬や猫のように「吐くことができない」動物だと言われている。が、異常を感じたときには「なんとかして吐き出そうとする」動物であることを、私はこの体験から知った。
もちろん、この時の私はラッキーだった。細長い織物という、引っ張ればのどから引き抜くことができる「異物」だったからだ。だから異物を飲み込んでしまった全てのうさぎに、私の体験が活かされるとは思わない。だがもし、これを読んでいるうさぎの飼い主さんがいたら、「うさぎは『吐けない』と言われているけど、非常時には『吐き出そうと』努力はする。だからもしうさぎのそんな様子を見たら、口の中を覗いてみて、引き抜けそうな異物なら引き抜いてほしい」と伝えたい。

ーーとまあ、自慢げに書いてしまったが、そもそもそんな異物を飲み込ませるような環境を作らなければいいわけで。いかにもうさぎが引っぱって飲み込みそうな、毛の抜けやすい毛布を敷いた私がバカだった。そんなバカな真似をする飼い主はそうそういないだろう。

こうしてファンは、うさぎの生物学的にはありえない方法で一命を取り留めた。この時には、こんな奇跡的な方法で生き延びたのだから、このうさぎはこれからもまだまだ生き続けると確信していた。まさかその半年後に、突然のサヨナラをすることになるとは、この時は夢にも思っていなかった。

続く
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神様がくれた時間「第二章・ファン」(その3)
私が数年ぶりに実家に帰って来たのは、妹が10日ほど前に家を出た後だった。もちろん妹がいなくなってからも、親はファンにエサや水をあげて世話をしていた。だがケージの外に出して遊ばせたり、頭を撫でたりまではしなかっただろう。そのせいか、それとも今まで世話をしていた人が急にいなくなったことがストレスなのか、ファンは体に10円玉2つぶんくらいのハゲができていた。「うさぎはさみしいと死ぬ」というのは、あながち全くのデタラメではないのかもしれない。
こうして、再びファンとの暮らしが始まった。以前のマンション暮らしとは違い、今度は実家で、塀に囲まれた庭がある。妹は時おり庭にサークルを出して、その中でファンを遊ばせていたようだった。だが私は思いきってサークルではなく、庭にそのままファンを放してみた。始めは用心深い足取りで庭を探検していたファンだが、やがて庭に慣れ、走り回るようになった。数ヶ月後に帰省した妹は、その様子を見て「野生に返ったようにギラギラしてる」と驚いたように言った。
ハゲもすっかりなくなっていた。私が再びファンと暮らし始めてから、二週間くらい経った頃だったと思う。

とはいえ、常に走り回っていたわけでなく、お気に入りの休憩場所もあった。私が日よけにと壁に立てかけた板の下もそうだが、特にお気に入りの場所は、庭の端っこにあるツツジの木の下だった。現在、ペットとして飼われているうさぎの先祖はアナウサギなので、やはり穴の中にいる時のような、暗くて、周りの視線から隠れられる場所が落ち着くらしい。ファンを私の部屋に離したときも、真っ先にベッドの下にもぐりこみ、なかなか出てこようとはしなかった。

ツツジの木の下がお気に入り

庭を探検したり、草を食べたり、木陰で横になってくつろいだりしているファンを見るのは楽しかった。ただ一つ厄介だったのは、庭からケージに戻そうとすると、ファンが逃げ回ったことだ。よっぽど庭が気に入っていたらしい。
うさぎは夕方頃から活動が活発になるが、私がファンをケージに戻そうとするのもちょうどそのくらいの時間だった。だから余計に、ケージに入れられまいと逃げ回ったのだろう。私がつかまえようと追いかけ、壁際に追いつめると、ファンは私をおびえたような顔で見あげた。うさぎって無表情だと思われがちだけど、実はこんなに表情が豊かなんだと実感すると同時に、ちょっと心が痛んだ。だが夜になると野良猫が来るかもしれないし、このまま庭に出しっぱなしにする訳にはいかない。
庭でファンを追いかけるとき、ふと昔聞いた童謡の「うさぎ追いし かの山」のフレーズが頭に浮かんだ。が、この後に続く歌詞が思い出せず、いつもこのフレーズだけが脳内でくり返されるのだった。




庭に植わっていた草を食べるファン。ファンの後に一緒に暮らしたグレも、この草を好んで食べた。おかげで我が家の庭からはこの草が激減した。

野良猫対策として、日が暮れる頃にはファンを家に入れていた私だが、その見通しは甘かった。確かに「野良猫」は、主に夜に活動するかもしれない。だが外で放し飼いにされている飼い猫は? 彼らは人間の生活リズムに合わせることも多いので、日中でも外を自由に歩き回っている。私はそれについて無頓着だった。

その日、私はいつものようにファンを庭に出してから、家の中で仕事をしていた。その頃になるとファンを庭に出しっぱなしにすることにも慣れ、始めの頃のように、つきっきりで見守ることは減っていた。10分ぐらいの間隔をあけて、時々庭に様子を見に行くぐらい。その日もふと気づいて庭に行ってみると、ファンがものすごい勢いで走っており、出口のフェンス(庭から出ないように設置していた)に体当たりしていた。明らかに様子がおかしい。ふと視線を上げると、塀の上に猫がちょこんと座っているのが見えた。ファンがパニックになっている理由が分かった。
私はすぐに走り回っていたファンを抱き上げた。するとファンは「キエェェ」と、まるで猿のような悲鳴を上げた。きっと、ついに猫に捕らえられたと勘違いしたのだろう。
「ふだん鳴かないうさぎが鳴くのは、死ぬとき」と、かつてうさぎ専門の写真家から聞いたことがある。確かにその声はこれまで聞いたことのないもので、まさに断末魔の叫びだった。
だがファンが悲鳴を上げたのはそのときだけで、すぐに今度はブーブーと不満げに鼻を鳴らした。ふだんから抱っこが嫌いなファンは、私に抱かれていることが不服らしい。さっきまで猫に狙われてパニックになっていたくせに、なんという変わり身の早さ。正常心に戻るのが早すぎる。
うさぎによっては、たとえ怪我などの直接の危害は加えられなくても、「猫に狙われた」ことがショックでその後全くエサを食べなくなり死んでしまった、という例もあるらしい。うさぎはそれだけストレスに弱い動物なのだが、幸いファンは図太かった。その日も、家の中のケージに入れると、何事もなかったかのように餌を食べていた。ふてぶてしいうさぎでよかった。
だが決して猫に狙われたことを忘れたわけではなく、ファンはそれからしばらくは、庭に出しても以前のようにリラックスすることはなく、じっと塀の上をーーあの日、猫がいた場所を見つめていた。再び猫が来ないか、警戒しているのだ。
事実、あの猫はそれから数日間、ファンを庭に出していないときに、たびたび庭にやってきたようだった。だがやがて飽きたのか、それとも諦めたのか、やがて猫は庭に来なくなった。

後にあの猫は、隣の家で飼われている猫らしいと分かった。野良猫だけではなく、外飼いの猫に狙われる危険もあるのだということを、私はこの件で実感した。そしてそれからしばらくの間、ファンを庭に出したときは、私も庭で過ごすようになった。だがうさぎを庭に放す以上、こうして常に側で見守るのが当たり前なのだ。そもそもうさぎは自然界では補食される動物で、外の世界はうさぎにとって敵ばかり。何も外敵は猫だけではなく、犬もいるし、カラスが空から襲ってこないとも限らない。なのに私は「昼間は野良猫は活動しないから大丈夫だろう」とタカをくくって、ファンを庭に放置していた。無責任な飼い主だったと言わざるを得ない。

だが私がそんな風に殊勝になっていたのは、それから半年くらいまでの間だった。あの猫がもう来ないようだと分かると、またうさぎを庭に出したまま、自分は家で用事をするようになった。そんないい加減な飼い主でありながらも、結局、ファンが庭で外敵に襲われそうになったのはあの時一回きりだった。本当に運がよかったとしか言えない。

「運がよかった」といえば、これも私の不注意からファンを危ない目に遭わせてしまい、だが奇跡的に助かったことがもう一度だけあった。

続く


ファンを撮った写真は、庭にいる時のものがほとんどだ。それだけ庭にいる時間が長かったこと、庭にいる時の方が、自然光でキレイな写真が撮れることなどがその理由だろう。だが最大の理由は、撮りたくなるようなイキイキとした表情を見せてくれたからかもしれない。
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神様がくれた時間「第二章・ファン」(その2)
当時、私の住んでいたマンションはペットOKではなかった。が、そういうマンションでうさぎを飼っている人はたくさんいる。鳴かないし、糞尿の掃除をきちんとしていれば匂いも漏れないので、大家や管理会社にバレずに飼うことが容易だからだ。
私も周囲に迷惑をかけてなければOKやんという考えだったが、私の両親は違った。ペットOKではないマンションでこっそりうさぎを飼うなんて絶対にダメだと言い、うさぎを実家に預けて、妹に世話を任せるようにと私に言いつけた。

ファンと暮らし始めてから、まだ一ヶ月も経っていなかった。まだ子うさぎで、今が一番かわいい時期である。私は反論したが、ペットOKではないマンションで飼っていることへの後ろめたさもあり、結局は親に従うしかなかった。妹がファンの世話をするというのも、しぶしぶ親の言いつけに従った理由の一つだった。
妹も動物好きで、セキセイインコを不慮の事故で亡くすまで、ずっと可愛がって世話をしていた。そして何より、妹は私よりずっとしっかり者だった。妹なら、きちんとファンの世話をしてくれるだろう。

そういうわけで、それから数日後に両親、弟、妹が車でやってきて、ケージごとファンを実家に連れ帰った。ファンがいなくなった部屋は寂しく、生気がなくなったようだった。ファンと別れた翌日、私は会いたくてたまらなくなり、仕事が終わるとそのまま電車に乗って、一時間ほど離れた郊外にある実家に向かった。
母親は、うさぎ会いたさにやってきた私に呆れていた。だが私自身も、自分に呆れていた。が、どうしてもその日はファンに会いたかったのだ。私が親への言い訳もそこそこに二階の妹の部屋に行くと、ちょうど妹がファンの世話をしているところだった。ケージから、すぐ前に座る妹の膝に飛び乗るファンを見て、私はほっとしたのを覚えている。そして気づいた。衝動的に実家に行った理由は、ファンに会いたかったのもあるが、実家でかわいがってもらっている姿を見て、安心したかったのだと。それが叶えられたので、それ以降、私は衝動的に実家に行くことはなくなり、その後しばらくファンと会うことはなかった。

ファンと離れて暮らしている間も、ときどき妹から情報をもらっていた。ファンは、妹から「ムームー」という名前をもらっていた。けっこう気が強いらしく、ベッドの上がお気に入りの場所で、移動させようとすると唸り声を発すること。また、普段は絶対に自分から妹に飛びついたりしないのに、病院に連れて行ったときだけ、「もう帰ろう」とばかりに診察台から妹に飛びついたこと。部屋に離して遊ばせていると、リラックスして、ごろんと仰向けになって寝ることなども聞いた。

その年の年末、数ヶ月ぶりに実家に帰った。子うさぎだったファンはすっかり大人になっており、まるで別うさぎのようだった。妹は部屋の床に防水のペットシーツを敷き、その上でファンを遊ばせていた。私が久しぶりにファンを膝の上に抱いたとき、ファンは嫌がらずにじっとしていた。私のことを覚えているのかなと嬉しくなったのも束の間、気づくと膝の上におしっこをされていた。私の膝を、トイレと勘違いしたらしい。

そんな生活が二年ほど続いた後、妹が結婚のため実家を出ることになった。だがうさぎは新居(マンション)には連れて行かず、実家に置いて行くという。そのマンションがペットOKではないという理由もあったのかもしれない。
妹が出ていった後、いったい誰がうさぎの世話をするのか。実家には両親がいて、エサや水を与えるという最低限の世話はしてくれるだろうが、「かわいがる」ことまでは期待できない。特に母親は動物が苦手だし、そういう人に世話を押し付けるのは申し訳ないとも思った。
ーーとなると、残る選択肢は一つ。私が実家に帰るしかない。

当時、私はすでに会社勤めをやめてフリーランスとして働いており、通勤のため大阪市内に住む必要がなくなっていた。在宅の仕事も増えていたので、実家に帰ってもそれほど仕事面での支障はなかった。
だからといってこのとき、「またファンと暮らせる!」と、喜び勇んで実家に戻ったわけではなかった。正直、複雑な心境だった。ファンと離れて二年も経つと、ファンのいない暮らしにもすっかり慣れ、気ままな一人暮らしを満喫していた。それなのに再びファンと暮らし始めると、またファンに情が移って、いつか必ず訪れる「別れ」を経験しなくてはならなくなる。私はすでに一度、子うさぎだったファンと引き離されるという「別れ」を経験している。なのにまた、今度はもっと辛い別れを経験しなくてはならないのは、ちょっと理不尽じゃないかと思った。
もっともかわいい子うさぎ時代をともに暮らせなかったのに、その最後は看取るという辛い役目をおわなければならないなんて……とも思ったが、元々の飼い主は私だし、ペットショップで購入したのも私である。あの日、家に連れ帰るとき、箱に入ったファンの重みを手に感じながら思った。「このいのちを最後まで全うさせてあげることが、このいのちをお金で買った自分の使命」なのだと。そのことを思い出し、実家に帰って、再びファンと暮らすことに決めたのだった。

続く
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神様がくれた時間「第二章・ファン」(その1)
エルと別れてから約10年後。その頃、私は大阪市内のマンションで一人暮らしをしていた。あれから動物は飼っていなかったが、初めての一人暮らしの寂しさから、「うさぎと暮らしたい」という思いがふつふつと湧いてきた。一人暮らしだから、自分の好きな動物を飼えるという利点もあった。
なぜ、他の動物ではなく「うさぎ」なのか。たまたま雑誌で、女性タレントが黒うさぎを部屋飼いしているのを見て印象に残ったから、といういかにもミーハーな理由が一つ。うさぎは鳴かないので、マンションでも飼いやすいという現実的な理由が一つ。
それともう一つ、かつて子どもの頃、拾ってきた野うさぎの子をすぐに死なせてしまった後悔があったからではないかと思う。

小学生低学年の頃だった。近所の草むらで野うさぎの子どもを拾った。周囲に親も見当たらないので、親とはぐれてしまったんだと判断し、家に連れ帰った。だが実際は「野うさぎの子ども」というのが珍しくて、そしてかわいかったから、連れ帰ったのだと思う。大人になった今だったら、周囲にそっと身を潜めて、親うさぎが戻ってこないかどうか、しばらく見守っていたことだろう。
だが子どもだった私はその子うさぎを手のひらに乗せて連れ帰り、飼おうとした。エサ(たまたま家にあった野菜だと思う)と水をあげていると、次の日には私の手をペロペロなめてくれて、「野うさぎなのに懐いてくれた」と嬉しかったことを覚えている。
だが結局その子うさぎは、家に来てたった3日ほどしか生きられなかった。たぶん、うさぎが湿気に弱いことなど全く知らず、浴室に置いたのが悪かったと思う。(なぜ浴室に置いていたのか不明だが、母親が動物が苦手なので、たぶん母に言われて浴室に置いたのだろうか)
その子うさぎが亡くなったとき、私はその亡骸を前に大泣きした。この経験が、大人になってから再び、うさぎと暮らすようになった理由の一つだと思う。今度は正しい飼い方をして、もっと長生きさせてあげたいと。

これはファン(ネザーランドドワーフ系雑種・♀)の物語である。

うさぎと暮らそうと決めてから、本やネットでいろいろ情報を集めたが、「ほしいうさぎ」は初めから決まっていた。「立ち耳の黒うさぎ」一択である。
なぜ黒うさぎなのかというと、まず、うさぎは基本的に外見がかわいい。その上、うす茶色やオレンジの毛色のうさぎだとかわいらしすぎる。でも黒だと全体がキリッとシャープにひきしまって、かつ高貴な雰囲気もただよわせ、「かわいくなりすぎない」と感じ、そこに魅力を感じたからだ。絶妙な甘辛ミックスの魅力とでもいおうか。
また、立ち耳にこだわったのは、やはり昔、拾った野うさぎの子どもの面影を求めていたからだろう。
そんな風に「ほしいうさぎ」が明確だったから、梅田の阪急百貨店屋上のペットショップで黒い子うさぎと出会ったとき、即座に「この子がほしい」と決めてしまった。そしていったんその日は帰って、ケージやエサなどを家に用意し、翌日、仕事帰りに再びそのショップに向かった。

その子うさぎは「ネザーランドドワーフ」という肩書きで売られており、値段は1万円。情報はそれだけで、性別や誕生日などはいっさい書かれていなかった。だが体のサイズからして、たぶん生後三〜五ヶ月くらいだろう。私が店長らしきおじさんに性別をたずねると、おじさんはうさぎをひっくり返し、雌であることを教えてくれた。だが一応ネザーランドドワーフの肩書きはあるけれど、血統書などはないと言う。確かに純血のネザーなら、1万円という安さでは売られていないだろうから、このうさぎは見た目はネザーっぽいけど、実はネザー系の雑種だということは容易に推測できた。が、別になんの問題もなかった。前に飼ってた犬も雑種だったし、むしろ雑種の方が丈夫でいい。

購入が決まってそのうさぎをケージから取り出すとき、世話係の若い女性店員が「クロちゃん、よかったね〜」と話しかけていたのが印象的だった。だがうさぎを、まるでケーキを持ち帰るときのような小さい紙箱に入れたのには驚いた。私は早く家に帰らないとうさぎが死ぬんじゃないかと不安で、仕事帰りの人でごったがえす梅田の街を、その小箱をしっかりつかんで家へと急いだ。
箱の中のうさぎは静かだったが、手にしっかりと感じる重みとぬくもりが、自分は今、かけがえのない「いのち」を預かったのだと感じさせた。このいのちを最後まで全うさせてあげることが、いのちをお金で買った自分の使命だと思った。

帰宅し、用意していたケージにうさぎを入れた。うさぎは慣れない環境に緊張しているのか、すみっこにうずくまったまま動かなかった。慣れるまではあまり構わない方がいいと思い、ペットショップの店員に「この子はいつもこれを食べている」と教えられて購入した牧草とペレット、水を用意し、あとは見守るだけにした。すると、しばらくしてペレットをぽりぽり食べ始めた。それを見て安心した私は、明日も仕事なのでひとまずベッドに入って寝ることにした。
が、しかし!
深夜、物音に気づいて目を覚ますと、うさぎが部屋中を駆け回っていた。ケージの鍵がちゃんと閉まってなかったのか、それとも初めから閉めていなかったのか。今ではよく覚えていないが、とにかくケージから脱走して、部屋中を走り……いや、正確には跳ねまわっていた。私が寝る前は緊張したようすでじっとしていたのに、私が寝たとたん、好奇心旺盛に部屋中を探検するなんて、なかなかいい根性をしたうさぎである。
私はこのうさぎに「ファン」と名付けた。名前の元ネタは、当時セレッソにいたファン・ソンホン選手(韓国代表)。当時、長居スタジアム近くのマンションに住んでいたこともあり、セレッソが身近な存在で、ファン・ソンホンも好きな選手のひとりだった。

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ともに暮らし始めた頃、マンションの自室で撮影。

前述したように、うさぎを飼ったのは「一人暮らしの寂しさを紛らわすため」という理由もあった。が、いざ飼ってみると、一人暮らしで動物を飼うのはとても気を使うことが分かった。当時、私は会社務めをしていたから、ファンを家に連れ帰った翌日も、朝、いつものように出勤した。が、昨日までとは違い、仕事中も、家に置いてきたファンのことが気になって仕方がない。エサも水もたっぷりケージ内に入れてきたから大丈夫と頭では分かっていても、急に体調を崩して苦しんでいたらどうしようとか、そんな想像ばかりしてしまって仕事に集中できない。あの一日ほど、会社にいる時間が長く感じたことはなかった。
夕方、仕事が終わると、ソッコーで家に帰った。地下鉄通勤だったが、この時もまた、これほど電車に乗っている時間が長く、もどかしく感じたことはなかった。
家に戻ると、ファンは朝、出かけた時と同じようにケージのすみっこでじっとしていた。私は安堵し、全身から力が抜けた。そして命を預かっているということは、こんなにも気を使うのかと、そのときつくづく実感した。

「家に残したうさぎが気になって仕事に集中できない」のは、結局最初の一日だけで、二日目からはそれほど気をもまずに、仕事に集中できるようになった。それより、帰ったらファンが待っていてくれるのが嬉しくて、毎日がイキイキと充実しだした。ファンが少しずつ私に気を許して、懐いてくれるようになってきたのも嬉しかった。
だがそんな幸せな「ファンとの二人暮らし」に、ある日突然ピリオドが打たれた。両親が部屋にやってきたのだ。

続く
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神様がくれた時間「第一章・エル」
「スタジアムに到着するまでに今年が終わりそう」と書いてから約一ヶ月が過ぎ、もう新年も11日め。この間ブログを書けなかったのには理由(言い訳)がある。7年間ともに暮らしたうさぎのグレが、クリスマスイブに突然体調を崩し、歩けなくなってしまったのだ。それから約二週間、年末年始で仕事が休みだったことも幸いして、私は一日中グレの介護につきっきりだった。

介護生活はしばらく続くと思われたが、いや、私としてはもっと続いてほしかったが、1月8日、あっけなく介護生活にピリオドが打たれた。だから今、私はこれを書いている。グレとの楽しい思い出を、そして最後の日々を、まだ記憶が新鮮なうちに残しておくために。
いや、私に楽しい思い出を残してくれた動物はグレだけではない。この機会に、これまでともに暮らした動物たちのことも書いておきたいと思う。

これはエル(雑種犬・♂)の物語である。

小学校の帰り道、垂れ耳が特徴の野良の子犬を拾い、家に連れ帰った。これが、私が初めてともに暮らした動物で、名前をエルと名付けた。
他の犬とじゃれあいの喧嘩をしても決して仰向けになってお腹を見せない(降参しない)のを見て、相手の犬の飼い主が「これはいい犬だ」と感心していた、自慢の犬だった。(ここで「自慢の子」と書かないところが私である。ともに暮らした犬もうさぎも溺愛しているけれど、だからといって「ウチの子」と言ったり、「エルくんのママ」とか呼ばれるのには違和感がある)
エルは完全に外飼いの犬で、玄関横の駐車場に犬小屋をつくり、そこで飼っていた。私が家や学校で辛いことがあり玄関前に一人座って落ち込んでいたとき、エルはそっと隣にやってきては、そのままいつまでも静かに座っていてくれた。私は隣のエルの頭をなでながら、辛いことがみるみる癒されていくのを感じた。
こう書くと、私とエルの間に強い絆があったように感じられるかもしれない。だが私は決していい飼い主ではなかった。エサなどは毎日きちんとあげていたけれど、学校から帰ってからの散歩は面倒で、いやいや散歩に行っていたように思う。かわりに、父がよくエルを散歩に連れ出していた。だからエルは父によく懐いていた。私はまだ子どもだったこともあるが、自分の都合のいいときだけかわいがるような、身勝手な飼い主だった。

エルは元野良犬だったので、正確な誕生日は分からないし、いったい何才まで生きたのかも分からない。でも10年以上は確実に生きたと思う。私がまだ小学生の頃に拾ってきて、やがて成人し、父の転勤のため家族そろって大阪から北海道に引っ越したときも、エルを一緒に連れて行った。大阪では前述したように外飼いしていたが、北海道は寒いので、冬になると「玄関で」飼うようにした。北海道の家は防寒のため玄関が二重ドアになっており、その二重ドアの間に小屋を入れ、そこで飼っていたのだ。


1991年10月15日撮影 北海道にて。

北海道に来た時点でけっこう年を取っていたエルは、数年後には首輪がユルユルになるほど痩せた。足腰も弱り、よろよろとしか歩けなくなった。私はエルがもうこの先長くないと感じ、ことあるごとにエルの頭をなでながら、「神様、この犬が死んだら天国に入れてあげてください」と祈ったことを覚えている。都合のいいときだけかわいがる身勝手な飼い主のくせに、この犬がもうすぐいなくなると思うと、悲しくて仕方なかった。

エルとの別れは唐突だった。その日、エルは玄関ではなく外の小屋にいたから、まだ本格的な冬は訪れていなかったと思う。でもとても寒い日だった。いつものように仕事から帰るとエルがおらず、鎖と首輪だけが小屋の前に残されていた。エルが自分で首輪を外して、どこかに行ってしまった? そんなことが可能なのだろうか。確かに最近やせて、首輪がユルユルになってしまっていたけれど……。
私と妹は懸命に外を歩き回ってエルを探した。やがて雪が降ってきて、白くつもるほどになった。妹が言った。「死ぬのは仕方ないけど、こんな寒い日に、家に帰ろうとヨロヨロさまよい歩いているのはかわいそう」。私も同感だったが、もしかしたらエルはもう、「家に帰ろうと」していないのかもしれない。もともと野良犬だったから、自分の死期を悟り、死に場所を求めて自ら家を離れたのかもしれない。
結局いくら探しても、エルはとうとう見つからず、家にも帰ってこなかった。

そういう訳で、私は最初に飼った動物の死に目に会えず、その亡骸すら見ることができなかった。動物との別れ方にはいろいろあるが、動物が行方不明になって帰ってこない……いわゆる「生き別れ」は、もっとも切ない部類に入るのではないだろうか。
私はエルとの突然の別れを悲しんだが、神様はきっと私の祈りを聞いてくれて、エルを天国に迎えてくれたと信じていたから、いわゆる「ペットロス」にはならなかった。だが自分はいい飼い主ではないという自覚があったので、その後、犬はもちろん、また動物を飼おうという気にはならなかった。

続く
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