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鬼ゆり峠

『鬼ゆり峠』〈上〉〈下〉
団 鬼六/幻冬舎アウトロー文庫

※ネタバレあり

6年ぶりに再読。結末も含めただいたいのあらすじは覚えているけど、細かい内容は忘れていたから、新鮮な気持ちで読み進められた。

団鬼六は偉大なワンパターン作家だ。彼のメーンフィールドである官能小説に限っていえば、話の内容は「高貴な女性が監禁されて、身分の低い下種な男女に陵辱される」ものばかり。「上流の女=清く正しい性格で、容貌も美しい。下流の男女=ひねくれたいじわるな性格で、容貌も醜い」という設定もお決まりだ。
確かに文章は流麗で読みやすい。だからスイスイと気持ちよく読み進められる。が、表現のボキャブラリーが少ないように感じることも。何度も繰り返し同じ表現が出てくる。誤字脱字もわりとある。これは作家のせいというよりも、掲載誌であるSM雑誌編集部の校正不足ではないかと思う。

私が初めて「団鬼六」の名を知ったのは、学生時代に書店でアルバイトをしていたとき。売場に本を並べていたら、当時、角川文庫から出ていた『花と蛇』が眼に留まったのがきっかけだ。角川にしては扇情的な表紙に興味をひかれて、休憩時間にその本をぱらぱらと開いたところ、独特の文体に一気に引き込まれた。ちょうど京子が責められている場面で、えんえんと続くその責め描写にこれはエッチな小説だと気づき、ちょっとうろたえたものの、かわいそうな京子の運命が気になって、彼女が解放されるまで読もうと思った。
そう、その時はまだ、酷い目にあっている奴隷は必ず最後には解放されて、悪者たちがやっつけられると信じていたのだ。
だがその本は官能小説で、しかもSMだった。京子への責めはえんえんと続き、さらに新たな奴隷として小夜子がとらわれる。うんざりしてきた私は結局、その一冊を読み終えただけで、それ以上そのシリーズを読むことはなかった。
だがあの独特の流麗な文章にはひきつけられた。

それから20年くらいたった頃だろうか。『花と蛇』は一般的に団鬼六の代表作といわれているが、実はそれと並んで『鬼ゆり峠』もかなり評価が高いことをネットで知った。時代物というのにも興味を惹かれた。『花と蛇』は途中で飽きて読むのをやめたけれど、久しぶりにあの美しい文章にひたりたくて、『鬼ゆり峠』も読んでみようと購入したのだ。
が、初めて読んだそのときは、どんな感想を持ったのかよく覚えてない。覚えてないってことは、たぶんそんなに感動しなかったんだろう。「官能小説に感動?」と思われるかもしれない。だが今回の再読で私はこの小説に感動し、特に物語の終盤ではずっと涙を流しながらページをめくっていたのだ。

確かに残酷で救いのない物語かもしれない。だが、これほど美しい物語もそうそうない。汚虐の極みの中にあるからこそ、よりいっそう美しく輝く姉弟の絆。この小説はジャンルとしては官能小説だが、その根底に流れるテーマは、最期の瞬間まで互いを思いやる姉弟の純愛にあるように感じた。

そう、これは姉弟の物語である。
被虐対象となる主人公が姉妹ではなく、姉弟というのは、団鬼六作品ではわりと珍しい。官能小説という性格上、それは当然だ。読者対象は圧倒的に男性だから、姉と妹、または母と娘など、タイプの違う美女二人を責めるストーリーが主流を占める。
『鬼ゆり峠』の原型といわれている、この小説より先に発表された団鬼六の『無残花物語』もそうだ。確かにストーリーは『鬼ゆり峠』によく似ているが、こちらの主人公は姉妹。一応、妹の婚約者である美青年も、姉妹とともに悪漢たちにつかまるのだが、彼の出番はほとんどなく、もっぱら被虐対象は姉妹の方だ。

『無残花物語』も悪くはないが、やはり『鬼ゆり峠』の方が圧倒的に面白く、物語生がある。基本となるストーリーに違いはほとんどなく、あるとすれば主人公の姉妹を姉弟に変えたことくらいだが、実はこの変更がけっこう大きい。

ヒロイン浪路の弟の菊之助は、由緒ある武家の家柄である、大鳥家の後継者という設定だ。この設定は男である「弟」ならではで、武家女である浪路が、家を継ぐ事になった菊之助の命だけは救おうと、執拗な陵辱に耐える姿勢に説得力を持たせている。浪路が家名を守ろうと陵辱に耐えれば耐えるほど、浪路の武家女としての矜持が引き立ち、そんな高貴な女性を陵辱し、ついには屈服させる描写に読者は興奮するのだろう。

「菊之助が大鳥家の後継者に決定した」ということは、悪漢達に捕われる直前、旅館にいる姉弟に、姫路からの手紙で知らされる。
父親が殺され、大鳥家が取り潰しになるのではと心配だった浪路にとっては待望のニュースで、浪路は久しぶりに心から幸福そうな微笑みを見せる。
女中の千津も、菊之助に「若様、おめでとうございます」と祝いの言葉をかけ、菊之助が照れるという、微笑ましいシーンなのだが、この「菊之助が大鳥家の後継者に決定した」という喜ばしい知らせが、後にこの姉弟に自害を許さず、えんえんと地獄に縛り付ける「足かせ」になるのである。だから後から読み返すと、この時の千津の「おめでとうございます」の言葉が実に皮肉でいい。

捕らえられたのが一人ではなく、姉弟二人というのもポイントだ。もし、捕らえられたのが自分一人なら、浪路は素っ裸にされた時点でさっさと舌を噛んで死ぬだろう。だが大鳥家の後継者である弟を救い出すまでは、死ぬに死ねないのだ。
その後も、浪路が屈辱に耐えきれず舌を噛みたいと漏らすたびに、悪漢たちから「浪路どのが死ぬと、菊之助も処刑する」と脅される。弟を救って家名を守るためには、執拗な陵辱に耐え続けるしか道はない。浪路が「自分一人ならとうに舌を噛みきって死ねるのに」と、ふと菊之助を恨めしく思うシーンは、それまで弟思いの姉として描写されてきた浪路だけに、どきっとする意外性がある。と同時に、浪路の屈辱感がひしひしと伝わってくる。このあたりの心理描写のうまさが、この小説が一部から「団鬼六の最高傑作」といわれている理由の一つだろう。

家名を守るために、執拗な陵辱に耐え続ける浪路。また菊之助の方も、敬愛する姉から「耐えるのです。決して自分で命を断つような真似をしてはなりません」と何度も厳しく命じられているので、どんな屈辱を受けても死ぬことができない。彼は物語の序盤、悪漢達につかまった時点で、「これ以上、生恥をさらすよりいっそ、この場で舌を噛みーー」と漏らすのだが、浪路は「なりませぬっ」と強い口調で叱咤するのだ。

「あなたがここで死ねば大鳥家は断絶、お殿様やご家老様を裏切ったも同然のことになる。私は見苦しいあがきと思われても、最後の時がくるまであなたの命を守り抜くつもりです」
大鳥家を断絶させてはならぬ、という点に浪路は異常な執念を見せるのだった。(『鬼ゆり峠』上巻より)

その後も浪路は、さらに過酷になっていく陵辱に耐えきれず、自害を選ぼうとする菊之助に、ひたすら「耐えるのです。最後の最後まで、望みはあります」と叱咤し続ける。すでに物語の結末を知っている私は、そういう浪路が自己中心的に感じることもあった。浪路は菊之助の辛さを思いやるよりも、お家断絶の方を恐れて、つまり武家女としての矜持を守るために、菊之助に自害を許さず、「耐えるのです」と非情な命令を下しているように思えたからだ。そんな浪路に、「そこまでして私たちは命を守らねばならぬのですかっ」と反発しながらも、それでも最後まで従おうとする菊之助が哀れだった。

だが物語の終盤、いよいよ処刑される日。浪路はそっと菊之助の手をまさぐりながら、「死ぬより辛い恥ずかしめをよく姉と一緒にここまで耐えてくれました」といたわり、だがその努力が徒労に終わったように感じて、「菊之助、浪路はあなたに何と詫びていいか分かりませぬ」と嗚咽するのだ。私はここで涙がこぼれた。不屈の精神力を持ち、ここまで体は陵辱され尽くしても決して精神は屈しなかった浪路が、遂に敗北を認めて、弱さをさらけ出した瞬間に思えた。

嗚咽しながら「菊之助、許して」と繰り返す浪路。そんな浪路に、菊之助は「いいえ、姉上。菊之助は幸せでございました。美しい姉上を妻にできたのですから。今生に思い残すことはございません」という。その言葉は、浪路を慰めるための詭弁だろうか。それとも彼は、姉弟相姦を強制されているうちに、いつしか姉を愛している自分の気持ちに気づいたのだろうか。そしてそれは、彼が最後の最後になって得た「望み」ではなかったか。ーーたとえそれが、浪路が言い続けていたような「望み」ではなかったとしても。
この菊之助の言葉についての、私の考えはこうだ。彼は17才という若さで無念の死を遂げねばならぬ自分を納得させるために、「敬愛する姉上を妻にできたのだから、もう思い残すことはない」と、いわば自分に言い聞かせたのではないだろうか。だが真意は分からないし、別にどちらでもいい。そんなことよりもこのシーン、初めて浪路と菊之助が強制ではなく、自らの意思で抱き合い、唇を触れ合わせる描写が美しく、胸を打つ。

二人は最後の別れの際にも、衝動的に緊縛された裸身をぶつけ合う。
「許して。武士の子であるあなたにこんな恥ずかしめを与え続けたこの浪路を許して」
「いいえ、恨みには存じませぬ。菊之助は姉上と共にこの恥ずかしめに耐えぬき、ようやく共に死ねるのだと思うと幸せでございます」

陵辱がいよいよ激しくなってきた物語の中盤では、「死んではならぬという姉上を恨みます」とはっきり姉に毒づいていた菊之助だが、いよいよ処刑という段になって、彼は姉を許したのだ。私はここに、この物語の「救い」を感じた。

姉弟は引き離されようとする直前、名残りを惜しむように強く唇を重ね合い、舌を吸い合う。
二人が互いに向ける愛情は姉弟のそれか、それとも男女のそれか。読者にもわからなくなってくるところがこの小説のキモで、これもこの小説がよくある姉妹ものではなく、姉弟ものであるからこそ、だろう。

だが浪路と菊之助の関係が、単なる姉弟以上のものであることは、小説の前半からうっすらと暗示されている。

それは先に紹介した、この小説の元ネタである『無残花物語』と比べるとよく分かる。『無残花物語』のヒロインお蘭は人妻で、だから憎い父の仇に陵辱されたとき、真っ先に心の中で(あなた、許して)と夫に詫びるのだ。それは人妻として、ごく全うな心理だろう。
だが『鬼ゆり峠』は違う。人妻である浪路は、憎い父の仇に陵辱されたとき、なぜか夫ではなく、弟の菊之助に(菊之助、許して)と詫びるのだ。そしてその後も、陵辱されるたびに、浪路は心の中で菊之助だけに詫びる。夫には遂に一度も詫びなかった。

おかしいだろ。

別に浪路が夫と不仲であるとか、そんな描写は一切ない。浪路の夫が不能で、浪路が性的に満足していないという設定はあるものの、普通に仲睦まじい夫婦という設定だ。なのになぜ。読みながら、ちょっと浪路の夫が不憫になってくる私であった。

 

■かわいそうな人たち
仕置き場につれていかれた姉弟は、遂に処刑される。ヒロインが処刑されたことを匂わせて終わる鬼六作品はわりとあるが、この『鬼ゆり峠』のように、はっきりと処刑シーンを描いた作品は珍しい。そしてそのことが、この作品を「鬼六作品にしては最高レベルの凄惨さ」といわしめているのだが、私はこうした残酷描写は時代ものならではで「アリ」だと思う。
それに、処刑シーン、それも潔い処刑シーンを書いてもらえる登場人物たちは幸せだ。人間の真価は、極限状態でどういう態度をとれるかで決まるからだ。
浪路は最後まで菊之助の命を救うことをあきらめず、救援隊が来るまで時間を稼ごうと、自ら痴態を演じてみせる。その健気さ。 菊之助は、自分の愛刀で玉を斬り落とされるという屈辱に耐え、観念して静かに処刑を待ち受ける。その潔さ。物語の導入部で、同じ玉斬りで処刑された雪之丞という登場人物がいるのだが、最後まで「嫌っ、嫌ですっ」と抵抗していた彼とは対照的だ。というか、雪之丞は玉斬り刑の残酷さを伝えるためだけに出て来たような人物で、この物語中、もっともかわいそうなのは実は彼だと思う。かっこいいシーンは一つもなくて、ただみっともなく泣きわめくだけの役回り。おまけに彼の恋人だったお小夜は、彼の死後、コロッと菊之助に乗り換えるし。お小夜切り替え早すぎ。

※余談だが雪之丞は、射精直前に完全に「女」になりきったり、自分を責める相手に気を配るところなど、作者が晩年に書いた『美少年』の菊雄の原型のように思える。というか、作者が精神的にいじめたという、実在のオカマちゃんがもともとの原型か。

だがお小夜もお小夜でかわいそうである。愛した男が二人とも、次々に玉斬りで処刑されるとかトラウマものだ。
それに、菊之助と相思相愛になったと思いきや、実はお小夜の片思いだったことが、物語の終盤で分かってくるし。菊之助は衝動的にお小夜と唇を重ね、お小夜の愛の告白に「菊之助もお小夜どのをもう離したくない」と応えるものの、それはどうやら本心ではなく、お小夜を傷つけないようにとりつくろっただけらしい。その証拠に、お小夜が菊之助を好きだという心理描写はあっても、菊之助には一切ない。
処刑の直前も、菊之助は「姉上、おさらばでございますっ」と浪路にだけ挨拶して、目の前にいるお小夜はスルーだし。お小夜立場なし。

 

■貫かれた「滅び」の美学
姉弟は陵辱され尽くしたあげく、性器を切断されるという無様な死を遂げる。「あまりにも救いのない物語」という感想も多いが、果たしてそうだろうか。武家女と武士の誇りを無残に打ち砕かれた姉弟にとっては、死は「救い」ではなかったか。浪路はたとえ救援隊に救われても、その後自害する決意でいたし、菊之助もまた、姉が死んで自分一人が助かるよりは、このまま姉とともに死ぬことを望んだ。
千津から救援隊が近づいていることを知らされた菊之助は、「千津。気持ちはありがたいが、たとえ、今、救い出されたとしても、菊之助は生きていく自信がない」と言う。姉上は、菊之助が救われるのを見届けて、自害する決意でいる。そのようなことはさせぬ。姉上だけ死なせて、どうして一人生きてゆけようか、と菊之助は泣く。
そんな菊之助を情けないと思う読者もいるだろうが、私は彼の気持ちがわかる。姉への思いはそれほどまでに強く、またそれほどまでに受けた陵辱が過酷で、とても自分一人だけで抱えきれるものではないのだろう。
彼にとって浪路は、ともにあらん限りの陵辱を受けた同志なのだ。姉だけが彼の辛さを分かってくれる。その姉が死んだら、自分一人で地獄の体験を抱えて、生きていかなければならない。それはあまりにも辛いのだろう。
だから、もし最後、姉弟が救出されたと仮定する。物語としてはハッピーエンドだし、読者はほっとするだろうが、私はこの姉弟がその後、幸せになれるとは思えない。浪路は自害するだろうし、それを見た菊之助も後を追うか、または精神を病んでしまうのではないだろうか。
それを思うと、姉弟がともに死んで行くこの結末は、もはや「これしかない」見事な締めくくり方だと思う。

姉弟はともに陵辱を受け、ともに死んでいく。団鬼六は妥協することなく、徹底した「姉弟の悲劇」を書ききったのだ。その姿勢には美学すら感じる。

姉弟ものは鬼六作品ではわりと珍しいと先に書いたが、姉弟揃って処刑されるというのも、実は珍しい。姉妹ものの場合、たいていメインヒロインである姉だけが処刑されて、妹は生き残る。
この作品でも、浪路が必死で救おうとしてきた菊之助だけは最後に助かるのかなと読者に思わせておいて、二人とも処刑されるという救いのなさ。だがそのことがいっそう、この作品を忘れ難くしている。
登場人物の死は、それが衝撃的であればあるほど、登場人物の生き様を鮮烈に引き立たせ、読者の脳内に強く刻み付けられる。
読み終えて本を閉じた後も、登場人物は読者の脳内で永遠に美しく咲き続けることができるのだ。

 

■男にも「奉仕」する男たち
官能小説なので、物語の中心は、囚われた姉弟が「これでもか」とばかりに責められるシーンになる。責めといっても、そこは団鬼六、肉体を痛めつける描写はほとんどない。この作家の特色である「羞恥責め」が中心で、大衆の前で姉弟を徹底的に辱める。尿意を極限まで我慢させ、耐えきれずに皆が見ている前で放尿させたり。男性器に鈴をくくりつけ、腰をゆすってその鈴を鳴らすことを強制したり。由緒ある武家育ちの姉弟だからこそ、青竹でぶったたかれるような単純な責めよりも、そうした「精神的な責め」の方がよほど辛い。

もちろん羞恥責めだけでなく、実際に体を陵辱される場面も多い。だがそれらのシーンも、男が一方的に自分の欲望を満足させるのではなく、逆に男が女に奉仕する形になっているのが団鬼六の特徴だ。女が最高の快感を得られるよう、男たちは徹底的に奉仕する。形としては女を縛りつけての陵辱だが、男たちが実際にやっていることは奉仕で、精神的には、逆に男が女の奴隷になっている。団鬼六がフェミニストといわれるゆえんだろう。

だから団鬼六の小説は、責められる女がどんな風に快楽にひたっているかは丁寧に描写されても、責める男の快楽射精描写はほとんどない。それもそのはず、男は自分の快楽は後回しで、女に最高の快楽を与えるために奉仕している奴隷だからだ。

SMとは女を責めさいなむ残酷な行為ではない。SMとは男が女を責めているように見えながら、実は男が女の美しさを引き出し、その美しさに身も心も捧げていく心優しい献身である。(中略)団鬼六のSM小説は、このことを言い続けている。(川本三郎「お柳情炎」解説より)

この小説で面白いのは、ヒロインの浪路だけでなく、その弟の菊之助も被虐対象になっていることだ。いくら女と見まがうばかりの美少年とはいえ、それでも男には変わりない。だがその男に対しても、悪役の男たちは奉仕する。熊造が菊之助を犯す場面、熊造は何度も射精しそうになりながら、それを歯を食いしばって我慢する描写がある。自分一人がさっさと先に射精するのではなく、今、自分が犯している菊之助をもっともっと高ぶらせてから、二人一緒に思いを遂げようとするのだ。こんなことは現実の強姦ではありえない。自分一人がさっさと射精して、欲望を満足させるはず。だが熊造はうっかり先に射精した後も、菊之助のそれを握りしめている伝助に「ぼんやりしねえで早く昇らせてやらなきゃ駄目じゃねぇか」と叱咤するのだ。こんな気遣いにあふれたレイプ犯がいるだろうか。

もちろん、そうして望まぬ絶頂に追いやられることが菊之助にとって最高の屈辱だと分かっているから、熊造はそうするのだが。だが自分一人が楽しむのではなく、抱いている男にも最高の快楽を与えようとする彼の行為は実に献身的である。
そうして熊造がたっぷりと「奉仕」したことで、菊之助は相手が憎い父の仇ということも忘れるほどの快楽に溺れ、熊造とうっとり口づけを交わすほどになる。それを見てキャーと黄色い声を上げるお銀とお春、あんたらは元祖腐女子か。(この小説が書かれたのは1970年代)

熊造はそれ以外でも、薄暗い地下の階段を縛られたまま降りて行く菊之助に「足元に気をつけるんだよ、お坊っちゃん」と声をかけるなど、妙にやさしい。重四郎もまた、浪路がめまいをおこしかけると「大丈夫か」とその肩を支えるなど、被虐対象に気遣いを見せる。終盤になると、重四郎はさらに浪路に対して感傷的になり、雲助たちが勝手に浪路に触ろうとすると、叱りつけて手出しを許さないシーンもある。
重四郎にはまた、「形見にする」ため、姉弟の尿を混ぜ合わせて、それを徳利に入れて一人悦に入るシーンがある。女だけでなく男の尿まで徳利に注ぎ、それを揺すって尿が流れる音を楽しむなんて、普通の神経では考えられないが、重四郎は姉弟の尿をまるで聖水のように大事に扱う。それは彼が、精神的にはこの姉弟の奴隷になっているからに他ならない。

と、いうようにこの小説、女だけでなく男も被虐対象になっていることで、「責める側が被虐対象の奴隷になる」という鬼六作品の特徴が、よりはっきりと現れているように思うのだ。


それにしてもーーいくら衆道が盛んな江戸時代の話とはいえ、出てくる男たちがどいつもこいつも揃って衆道の趣味も持ち合わせてるってどうなのよ(笑)。姉弟が裸で縛られていて、それを見た男たちが真っ先に食いつくのはもちろん浪路なんだけど、続いて菊之助の裸にもねっとりと好色な眼を注ぐ、そんな描写がたびたび出てきて、なんというか、「鬼六先生も律儀だなあ」と。主な読者層は圧倒的にノーマルな男性だろうし、そんなに何度も「淡い小麦色の、しなやかで滑らかな裸身」とかしつこく男の体を描写して、喜ぶ読者がいったい何人いるのかと。
だから終盤、「俺には稚児遊びの趣味はねえ」と、菊之助を責めることを嫌がる雲助が妙に新鮮だったり。ふ、ふつーはそうだよね(汗)。


■最後に
読者が「なんとか間に合ってほしい」と待ちわびていた救援隊は、姉弟の死の直後に到着する。それが読者をよりいっそう、やりきれない思いにさせる。「今頃何をしに来たのだ」とばかりの千津の冷酷な眼差しは、そのまま読者の感情を代弁している。そしてその後、再び50年後の千津の場面に戻るのだ。
姉弟をなぶり殺した男たちは、この後、救援隊に復讐されたであろうということが、その千津の場面でさりげなく暗示されている。千津が、切断された浪路と菊之助の性器を保存していたからだ。本来ならばこの二つの性器は、三五郎が所持しているはずだから。
だが小説は、悪者たちが復讐されるシーンなど一切書かないし、後日談として「その後、悪者たちは退治されました」などということも書かない。その後のことは読者の推量にゆだねている。単純な勧善懲悪ものにせず、ただ、美しい姉弟の徹底的な悲劇を描くのみ。その潔さが胸を打つ。

 

この小説は1980年に東京三世社から出版されたが、1997年に太田出版から再出版される際、大幅に書き直されたらしい。作者が残虐と判断した場面を修正したそうで、だから今、出版されているバージョンは「毒気を抜かれたもの」だとか。そう聞くと、書き直される前のオリジナルもいつか読んでみたくなってくる。

最後に、『鬼ゆり峠』で検索すると、ひっかかってくるBLコミック『美剣士』について少し。『鬼ゆり峠』をベースにしたBLだそうで、あの小説をいったいどうやったらBLにできるのか、逆に興味をひかれて、読んでみた。

……うーん。作者はあとがきで「『鬼ゆり峠』を下敷きにした」と書いているけど、「どこが?」という感じ。登場人物の名前だけ借りた、『鬼ゆり峠』とは全くの別物で、こんなもんは勝手にオリジナルでやってくれと言いたくなる。菊之助という名の若侍が囚われて陵辱されれば、もうそれで「鬼ゆり峠がベース」ということになるのだろうか。
その陵辱も、「にっくき父の仇に陵辱される屈辱」がキモだった原作と違い、何の関係もない雲助たちからの陵辱だから、屈辱感ゼロ。「体だけでなく心も陵辱し尽くす」という鬼六作品のスピリットがきれいさっぱり抜け落ちてるから、読んでてちーっともドキドキしない。よくこんなんで「原作 団鬼六」と本の著者欄に記載できるわ(呆)。
「原作を読むと、菊之助の相手役は重四郎かなと」感じたと、作者はあとがきに書いているが、これも謎。いったい原作のどこをどう読めばそう感じるのか……腐女子フィルターって凄いですね。
もし仮に私が『鬼ゆり峠』をBL化するとしたら、浪路を男にして、美形兄弟の受難物語にするかな。そしたら、原作のストーリーそのままでBLになるし。それか、重四郎と定次郎をカップルにして、悪役視点の話にするのも面白いかも。って、いったい何の話だ。

仮に「鬼ゆり峠がベース」という見方をなくして、全くのオリジナルとして読んだとしても、絵も雑だしネームも稚拙だし、がっかりな作品だった。

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ゴールデンボーイ
『ゴールデンボーイ』
スティーヴン・キング/浅倉久志 訳 新潮文庫

※ネタバレあり

『刑務所のリタ・ヘイワース』と『ゴールデンボーイ』、2つの中編が入った本。本を手に取ったきっかけは、映画『ショーシャンクの空に』を見て、その原作の『刑務所のリタ・ヘイワース』が読みたくなったから。だが読んでみると、もう一編の『ゴールデンボーイ』の方が遥かに面白かったという。
いや『刑務所のリタ・ヘイワース』も面白いんだけど、先に映画を見てストーリーを知ってるから、どうしても「この先どうなるんだろう」というドキドキ感が少ない。それに、なまじ映画の出来がいいもんだから、読みながらいちいち映画と比較してしまう。「あー、映画はここを変更したのね」とか「ここをふくらませたのか」という風に。
小説と映画の違いを簡単に言うと、映画はかわいそうな人はよりかわいそうに、悪者はより悪者に仕立て上げることで、物語をわかりやすく、ドラマチックにした感じ。そんな風に、無意識のうちに映画のシーンをだぶらせながら読んだので、今ひとつ物語にのめり込めなかった。
だが物語の締め方は、私は映画より小説の方が好きだ。あえて完璧なハッピーエンドの一歩手前で終わる、あのもどかしい感じ。物語の結末をはっきり書かず、読者に想像させるあのラストの方が、映画よりも余韻がある。
確かにあの小説を映画化するとなると、ラスト、二人の再会シーンを映像化しないと観客はすっきりしないだろうし、それが小説と映画の違いだろう。別にどっちが正しいとか正しくないとかではなく、映画は映画としてふさわしいラストを提示したし、小説もまた然り。どこまでも広がるコバルトブルーの太平洋と白い砂浜、そしてヨット。それまで刑務所という閉じられた世界での物語が続いていただけに、あのラストシーンの開放感は胸に迫る。美しい映像と音楽で見る者の五感に直接訴える、映画の魅力がいかんなく発揮されていると思う。
だが私はレッドの「希望」が全てかなったあのラストをあえて書かず、読者の想像にゆだねた小説の方が「粋」に感じた。

原作付き映画の場合、「見てから読むか。読んでから見るか」は悩むところだ。だが私は基本的に「読んでから見る」ことにしている。
それは小説より映画の方が、発信する情報量が多くて、観客は基本的に受け身だからだ。小説のように、登場人物の顔や、風景を想像する余地がない。全て映像で説明してくれる。だから映画を見た後に原作を読むと、どうしても映画でその人物を演じた俳優の顔を浮かべながら読んでしまう。これは、自分で自由に登場人物のビジュアルを想像できる小説の読み方としては、もったいないと感じるのだ。
では原作を読んでから映画を見ると、「登場人物が自分のイメージと違う」と、違和感を感じるだろうか? 映画の初めのうちはそれもあるだろうが、すぐれた映画なら、見ているうちに次第に映画に引き込まれ、登場人物のイメージ違いなど気にならなくなると思う。それほど、映画の放つパワーは強烈だからだ。先に原作を読んで自分なりにイメージができている登場人物も、「ま、映画はこれはこれでアリだな」と納得させられてしまう。

だから私は基本的に、映画よりも先に原作を読みたい派。小説よりも情報量が断然多い映画を先に見ると、イメージが固定されてしまう。
個人的にも、観客が一方的に受け身にならざるをえない映画より、読者にも色々と想像の余地がある小説の方が好きだ。
この本に収録されている『ゴールデンボーイ』は、読んでから知ったけれど、映画化もされているらしい。よかった、先に映画を見なくて。心からそう思えるほど、ストーリーの展開が読めなくてハラハラした。本の裏表紙には「少年と老人の交流」とか書いていたからてっきりほのぼの系の話かと思いきや、とんでもない。キングの作品の中では五指に入るほど「エグい」作品なのでは。単なるスプラッター的なエグさじゃなくて、精神的なエグさ。トッドがナチス収容所の残酷さにワクワクする、あのワクワクに少なからず読者は共感する部分があるからこそ、「もしや自分もトッドのように、心の奥底にモンスターが潜んでいるのでは」と不安になる。これはもうキングの思うつぼだろう。
ナチスの戦犯であるドゥサンダーが妙にかっこよく思えるのも、キングの術中にはまっているといえるだろうか。特に初めはトッドに脅され、支配されていたドゥサンダーが、やがてトッドを支配し始める展開は痛快だ。
ドゥサンダーに比べて、トッドの両親が妙にまぬけに書かれているのも面白い。やがて奇妙な友情が芽生えるのかと思えたトッドとドゥサンダーの間に、最後まで友情が芽生えないのも面白い。特にトッドはドゥサンダーが死んだ後も彼を憎悪しているし。これでもしトッドとドゥサンダーの間に友情が芽生えたりしていたら、きっと安っぽい話になっていたことだろう。
ラストの展開も衝撃だ。結局トッドは負け、ドゥサンダーは勝ったという感じ。一応、目覚める可能性が皆無の悪夢の中に落ちていったと書いてはいるけれど、計画通りに自殺できたんだから「勝ち逃げ」だろう。
ナチスの戦犯が最後には勝ったと読者に感じさせる小説ってどうなんだ。しかし文句なしに面白い。残念ながら映画の方はラストを変更したりしてイマイチらしいので、原作のイメージを大事にしたい私は映画は見ないでおこうと思う。
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白夜行(と幻夜)
 『白夜行』『幻夜』
東野圭吾 集英社文庫

『白夜行』と、その続編とも言われている『幻夜』を続けて読んだ。先に読んだ『白夜行』は、名作と言われているだけあって確かに面白い。だがヒロインの雪穂が、あれだけの悪行を繰り返してまでも求めているものが「富と名声」に読めてしまうのがあまりに俗っぽくて、あまり魅力を感じられない。だから共感も感情移入もできなかった。いや、本当はもっと別のものを求めているのかもしれないけど、少なくとも本を読む限りでは、彼女は「富と名声」に執着しているように見える。さらに『幻夜』の美冬も雪穂だと考えると、「富と名声」に加えて「衰えない若さと美貌」も追い求めていることになり、ますます俗っぽく。
こういう、いわゆる「犯罪者」を主人公にした小説って、その主人公にどれだけ感情移入できるかがカギだと思ってるので、これだと読み終わった時にどうしても読後感の悪さが残る。
まあそれでも、『幻夜』よりは『白夜行』の方が、主人公たちの「切なさ」みたいなものが感じられて心に残った。また脇役も含めた登場人物の多彩さやその造形も『白夜行』の方が上のように思う。初登場の時にはちょい役だと思った登場人物が、物語が進むにつれて意外な存在感を発揮したりする。特に私が意外だったのが篠塚一成だ。
だが作中、探偵の今枝が「雪穂の最愛の人は篠塚一成」と確信を持って言ったことについては疑問が残る。果たして本当にそうなのかどうか、読者の中でも意見が割れているようだけど、私は「否」と思う。雪穂は一成に特別な感情を抱いているのは事実だろうが、それは今枝が言うような愛情ではなく「警戒」ではないかと思うのだ。
第一印象で彼女の本質を見抜き、他の男たちのようには彼女に翻弄されなかった一成。その、ベテラン刑事をも驚かせる鋭い眼力を、雪穂はずっと警戒し続けているのではないだろうか。
今枝が「雪穂の最愛の人は一成」とした理由の一つの、「何年も前にちらっと見ただけの、一成の腕時計を覚えていた」というのも、警戒心からだ。また今枝が、雪穂のブティックに偵察に行く場面。紹介者の名前を篠塚にしたら、店の上得意客で、彼女にプロポーズしている康晴ではなく、一成の名前を上げたのも、警戒心からではないかと思う。雪穂は今枝をひと目見て、彼が単なる客ではない、恐らく刑事か探偵の類の人間ではないかと見抜いたのだと思う。そんな人間を店によこす人間として、真っ先に一成の名前が思い浮かんだのではないだろうか。
そんな、警戒すべき人間だからこそ、養母の葬式の時、雪穂は一成を懐柔しようとして、彼に弱みを見せたり、誘惑したりしたというのが、私の推測だ。

とはいえ一成が、雪穂の養母の葬式のため強引に大阪に行かされるくだりについては、「あ、彼も大阪で消されるんだな」と予想していた。だからそうならなかったのは意外だった。一成に依頼されて雪穂の調査をしていた今枝が「消された」直後だから余計に。
雪穂にとって明らかに邪魔な存在なはずの一成が、直接の危害を受けず、受けた罰が「左遷」だけというのも生ぬるく感じる。その「左遷」にしたって、大阪で雪穂の誘惑になびかなかった後のことだから、もしかすると雪穂が「フラれた」腹いせに左遷という罰を与えたのかも、という思いもある。だって他の邪魔者たちが受けた報いに比べて、明らかに中途半端な報いだし。そう考えるとやっぱり雪穂は一成が好きだったのかなあとも思える。雪穂がようやく康晴からのプロポーズに応じて結婚したのも、大阪で一成にフラれた後のことだし。それまでは一成に未練があって康晴からのプロポーズに応じなかったけれど、大阪ではっきり脈がないと分かって、それでようやく康晴と結婚することにしたのかも、と勘ぐりたくなる。
……あれ、ということは、やっぱり雪穂は一成が好き? 書いてるうちに自分でもよく分からなくなってきた。
でもでも、やっぱり雪穂の一成への感情としては、先に書いた「警戒」の方が強く感じるんだよなー。警戒するということは、それだけ「鋭い眼力の持ち主」として一目置いて、特別視しているということでもある。それを愛だと読み違えたのが今枝で、読者にもそんな風に思わせて雪穂の人物造形に深みを与えようとする作者のテクニック…なのかもしれない。
そして『幻夜』が『白夜行』ほど物語に深みが感じられないのも、『幻夜』には一成のようなキャラクターが登場しなかったことも、一因かもしれない。ヒロインが本当に愛しているのは彼なのでは、とふと思わせられるような男性が。
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わが恵み汝に足れり
『水野源三精選詩集 わが恵み汝に足れり』
水野源三 森下辰衛(選) 日本キリスト教団出版局

詩集を読んだ感想を書く時は、その感動を伝えようと、つい「お気に入りの詩」をそのまま記事に書き写しがちだ。なんたって文が短いから、簡単に書き写せる。この詩集もついそんな衝動に駆られたけれど、「それって著作権違反ちゃう?」という良心の呵責に耐えられず、詩を書き写すのはやめにした。
でもその代わりに、水野源三の代表的な詩を載せている別のページをリンクしてみる。彼が生まれ育った坂城町の公式サイトだから、著作権もきっとクリアしてるだろうし。(責任転嫁)

坂城町商工会「にぎわい坂城」内の水野源三ページ
http://www.sakaki.com/cci/nigiwai/jinbutu3.html

水野源三の生き様については、上のページを読めばざっと分かると思う。簡潔によくまとまっているが、ただ一つ、重要なことが抜けている。
それは、源三がキリスト者であったことだ。

源三は小学校4年生のとき赤痢にかかり、その後遺症で動くことも、話すことも、書くこともできなくなった。聞かれることに対してうなずいたり、首をふることさえできなかったというから、その不自由さは想像を絶する。本人にはちゃんと意識があって頭も正常なのに、周りの人と全く意思疎通ができないのだ。意識があるという一点以外は、植物人間となんら変わらない。いや意識があるぶん、植物人間でいるよりずっと残酷だったかもしれない。

そんな絶望の中にいたとき、宮尾牧師と出会い、洗礼を受けてクリスチャンとなった源三は、やがて詩を作り始めた。だが自分では声も出せず指も動かせないため、五十音図を母が指でたどり、源三のまばたきの合図で言葉を拾い詩を作るという方法をとった。「まばたきの詩人」といわれるゆえんである。
そして1984年、47才で亡くなるまでに四冊の詩集を残した。今回、読んだ『水野源三精選詩集 わが恵み汝に足れり』は、その四冊を一つにまとめたものだ。

「世にはたくさんの本がある。しかし、この本は別なのだ。全く別なのだと私は叫びたい」
源三の初めての詩集『わが恵み汝に足れり』冒頭の推薦文で、三浦綾子はきっぱりとそう言った。どこがどのように別なのか。三浦はこう続けている。「手も足も利かぬ、ものも言えぬ寝たっきりの源三の目の動きを、必死に追いつつ手帳に言葉を書きとめる、この二人の姿を想像しただけで、私の胸は熱くなる。子と母が一心同体になってつくりあげたこの詩歌集は、世の多くの本とは全く別のものなのだと私は言いたいのだ」
つまり三浦は、詩が生み出される過程やその背景も「込み」で、源三の詩を絶賛している。これは三浦だけでなく、彼の詩に心打たれるほとんどの読者もそうだろう。
かくいう私もその一人だ。だが実はこの詩集を読むまでは、そんな源三の詩の「特異性」にいささか違和感を感じていたりした。
というのもこれまで源三の詩は、彼の想像を絶する不自由な生活と常にセットで語られてきた。彼の詩集を手に取る人は、作者の過酷な境遇について「なんにも知らない」ことはまずない。「口もきけない寝たきりの人が、まばたきだけで書いた詩」という予備知識がまずあって、それから「そんな人が書いた詩ってどんなんだろう」という思いにかられてその詩に目をとめる。
それは他の文学作品と比べて確かに特殊で、三浦が「この本は全く別なのだ」と言うのも頷ける。
だがその特殊性ーー作品が、作者の過酷な境遇と常にセットになっているあたりが、純粋に「作品」としては評価されていないようにも思えて、私は若い頃、ほとんど源三の詩に興味を示さなかった。雑誌などでは、寝たきりの源三の写真と常にセットで掲載される詩ーー今も昔もひねくれ者の私の目には、「お涙頂戴」的に映ったのだ。

だが今回、この詩集を読み進めながら、自然と涙がにじんでくるのに気づいた。
私も年を取り、いくらかの人生経験を積んだからだろうか。源三の詩が素直に胸にしみ込むようになった。ページをめくるごとに、自分の中の頑なな部分が、心の壁が、一枚ずつとりはらわれていくような感じ。
それはきっと源三の詩が、とても素直で、分かりやすいからだろう。奇をてらった表現や、難解で独りよがりな表現など全くない。そしてこれもよく指摘されることだが、源三の詩には暗さがない。希望と喜びと感謝があふれている。これについて三浦綾子は「水野さんが詩歌をつくったのは、つまりこの感謝の思いを伝えたかったのだ。キリストに救われた喜びを、何としてでも伝えたかったのだ。体は不自由でも、喜びにあふれた生活のあることを、多くの人に知ってほしかったのだ」と書いている。(三浦綾子著『白き冬日』より)

このように源三の詩の根底に流れているのは、キリスト者としての信仰だ。では彼と同じ信仰を持つ者でなければ、その詩に共感したり、感動したりできないのだろうか? もちろんそんなことはない。三浦綾子の小説にしてもそうだが、すぐれた文学というものは読む側に「条件」を求めない。
これも三浦綾子が書いていることだが、坂城町を訪れた旅人が源三の家を町の人にたずねたとき、その町の人は道を教えてくれた後、「水野さんはこの町の宝です」と言ったという。
そして源三が永眠してから14年後の1998年、坂城町に源三の詩碑が建てられた。

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(撮影:トリスおじさん)


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詩碑の裏には源三の生涯が刻まれている。

この詩集は一気に読んでしまうのはもったいない。毎日、少しずつ味わいながら、しみじみと読み進めていきたい。
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夜と霧 新版
『夜と霧 新版』
ヴィクトール・E・フランクル/池田 香代子 訳 みすず書房

6月にポーランドのアウシュヴィッツ博物館に行くので、その前に何かアウシュヴィッツに関するものを読んでおこうと思い、真っ先に思いついたのがこの本。
だいぶ前に一度読んだことがあるけれど、内容はあまりよく覚えていない。だからもう一度再読したいと思い図書館で探したら、「新版」と銘打たれた本が見つかった。1977年に出版された「改訂版」を新たに翻訳し直したものらしい。
私が前に読んだ『夜と霧』はセピア色の写真が表紙だったので、今でいう「旧版」のようだ。あの本とは別の翻訳者が新たに訳した『夜と霧』は、びっくりするくらい読みやすく、内容がストレートに頭に入ってきた。私が、前に読んだ時の内容をあまりよく覚えていなかったのは、どうやら旧版の翻訳が、当時の私にはいささか難しかったことも理由の一つらしいと、新版を読みながら思った。
もちろん旧版の格調高い文章にも魅力はある。その証拠に、新版が出てから10年以上経った今もなお、版を重ねている。明治時代に出版された聖書の文語訳が今なお人気があり、出版され続けているのとどこか似ている。堅苦しい訳で読みにくいんだけど、その読みにくさを補ってあまりある魅力があるというか。

“つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

全編に渡って珠玉の言葉が綴られている中で、私が最初に頁にふせんを貼ったのがこの言葉だ。著者はここで意図的に、被収容者たちを「被収容者」と「人間」とに区別している。つまり典型的な「被収容者」はもう、「人間」ではないのだと。
では、著者の言う典型的な「被収容者」とは何か。単行本の111頁にはこう書かれている。「人間の独自性、つまり精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件にもてあそばれる単なるモノとなりはてた」存在のことだと。
この言葉から、著者の言う「人間」とは何かが見えてくる。つまり収容所という極限の状況にあってもなお、「人間の独自性、つまり精神の自由を持ち続けた存在」のことだ。彼らは体は収容されても、その精神だけは収容されなかったのだ。

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間として最後の自由だけは奪えない。

この言葉を読んで、私が真っ先に思い出したのはコルベ神父だ。だが後にローマ法王によって聖人に列せられた彼以外にも、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりの声をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々がいたことを著者は記している。典型的な「被収容者」ではなく、「人間」であり続けた人々のことを。

“強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた。
けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。


いつか解放されて、地位や環境も元通りになった時ではなく、収容されているどん底の「今」にこそ、その人間の真価が発揮されるのだと著者は言う。大半の被収容者たちのように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人々のように内面的な勝利を勝ち得たか。
だがいくら内面的な勝利を勝ち得ても、収容所の中で苦しみ、死んでしまったら意味がない、と考えるかもしれない。どんなに無気力に過ごそうとも、最終的に生き延びてこそ意味があるのではないか、と。
だが著者はその問いにはっきりと「NO」と言う。それは彼が、収容所生活の中で到達した答えだった。大半の被収容者たちが生き延びることができるか否かを気にかけて苦しんでいる中、著者は「私たちをとりまくこの全ての苦しみや死には意味があるのか」と問いかけていた。そうして導きだされた答えが「苦しみや死にも意味がある」。

およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。”

もしも(苦しみや死が)無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖(幸運)に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。


この言葉には胸を突かれた。「生きる」ことに対し、ここまで厳しい姿勢で望んでいる人をいまだかつて見たことがない。
あの収容所生活を経験した人だからこそ言える言葉、という意見もあるかもしれない。だがたとえ収容所生活を経験していなくても、例えば病気と闘っている人など、今現在、困難な状況にある人々全てに、この言葉は共感を持って響くのではないだろうか。
私はまだそこまで苦しい状況に置かれたことはないけれど、それでも頁をめくるごとに大いに考えさせられ、ときには勇気づけられ、慰められた。頁をめくるごとに珠玉の言葉に出会えるので、その度に頁をめくる手を止め、じっくりとその言葉を味わう。おかげで160頁足らずの中編にもかかわらず、読み終えるのに一週間近くかかったが、充実した読書体験だった。もしアウシュヴィッツに行く予定がなかったら、もしかしたら再読しなかったかもしれないし、「新版」にも出会わなかったかもしれない。そういう意味でも、アウシュヴィッツに行く予定を立てて良かった。もちろん、アウシュヴィッツに行く予定のない人にも心からおすすめできる本だ。

本の終わりの方、被収容者のために、ポケットマネーでこっそり薬品を購入していた収容所長(ナチスの親衛隊員)と、解放後に彼をかばったユダヤ人被収容者たちのエピソードには感動した。改訂版で新たに追加されたエピソードだという。改訂版を読んでよかったと改めて思った。

アウシュヴィッツに行く前に読もうと思った本にもう一冊、『アウシュヴィッツ博物館案内』がある。これは現地で利用したいと思ったので、珍しく借りるのではなく「購入」した。旅行前にひととおり読み終わったけれど、実際に現地で案内書として利用してから、その感想を書きたいと思う。
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夏への扉
※ネタバレあり。

『夏への扉』
ロバート・A・ハインライン/小尾芙佐 訳 早川書房

私だけではないだろうけど、図書館で本を選ぶ時は、すでに評価の定まった名作を選ぶことが多い。この作品もそうだ。SF雑誌の読者投票で一位に選ばれたとか、SFオールタイムベストワンに選ばれたとか、とにかくSFファンから熱烈な支持を受けている。読む前から、いやがおうにも期待が高まろうというものだ。
だが一抹の不安もあった。私が初めて読んだハインラインは、これも評価が高い『月は無慈悲な夜の女王』だったが、あまり面白いと感じなかったからだ。
もしかして私には、ハインラインの作品が合わないのかもしれない。でも一作だけで「合わない」と決めつけるのはあまりに早計というもの。なのでハインラインの作品中、(日本では)もっとも人気の高いこの作品を読んでみた。

で、読み終わった感想は。……うーん、やっぱり私には合わないのかも。とはいえ『月は無慈悲な夜の女王』よりはずっと楽しめたし、途中まではワクワクしながら読んだ。だが後半、タイムトラベルのマシンが登場したとたん一気に萎えた。あまりにも唐突で、あまりにも都合良すぎ。そのご都合主義全開な展開に萎えると同時に、その後の展開もおおかた読めてしまった。
主人公のダンに共感できないのも、イマイチだと感じた一因だろう。共感も感情移入もできないから、この物語の主軸である、彼の逆転ストーリーを心から応援できない。才能あふれる技術者なのは分かるが、だからといって周りの技術屋以外の人たちを見下し過ぎ。自己中心的というか。猫大好きなのはいいけれど、その猫をどんなところにも(動物お断りの飲食店にも)こっそり連れて行って、注意してくるお店の人に食ってかかるあたりもげんなりした。なんて自己中な飼い主だろう。これは別に私が「猫好きじゃないから」とかじゃなく、主人公が私と同じくうさぎを飼っていても、読んでてげんなりしただろう。ペットを偏愛するあまり周りの迷惑を考えない人間は、同じ動物好きとして好きになれない。

ヒロインのリッキーにもあまり共感できなかった。もっともこれは、彼女の登場シーンが少なすぎることが大きな理由だが。だがその短い登場シーンの中ですら、人間味があまり感じられなかった。特に継父のマイルズへの態度が冷淡なのが気になった。母がなくなった後も、血がつながっていない自分を育ててくれた人なのに、「あの人は、あたしのほんとうのパパじゃないもん」とか冷たすぎる。このシーンも含めて、本を読み終えて真っ先に出てきた感想は「マイルズが気の毒」だった。根は悪い人じゃなさそうなのに。ダンも、マイルズがベルに騙されて殺されたことを知ってるなら、1970年に戻った時にマイルズを助けてあげればいいのに。ピートだけ助けるんじゃなくって。だがマイルズが死んだと知った時も、元親友の死に対して何のショックも感じてなさそうだったし、もうマイルズのことなどどうでもよくなってたってことか。このマイルズの件があるから、私はこのお話が、巷で言われているほど「完全なハッピーエンド」とは思えなかった。
その他の登場人物たちも、なんだかおしなべて人間味に欠けるというか、薄っぺらく感じた。人物ではなく、プロットを動かすための記号に過ぎないという感じ。一番生き生きしていたのは人間ではなく猫のピートだ、間違いなく(笑)。

だがそのプロットも、タイムトラベルものにしてはあまり練られてなくて、穴だらけという印象。リッキーと同じく、私も「もうひとりのダンはどうなったの?」と疑問に思った。それについてはダン自身もあまりよく分かってなくて、ごまかしているのを読んでがっかり。タイムパラドックスの矛盾を説明することから、作者が「逃げた」という印象を受けた。「なるほど!そうだったのかー」という知的興奮が味わえるのがSFの醍醐味なのに、読み終わってからもモヤモヤ感が残るのはSFとしてはどうなのか。他にも、後半になると話をまとめるためにご都合主義で無理矢理な展開が多くて、せっかくのクライマックスも話にのめりこめなかった。
もしかすると、「SFオールタイムベストワン」というのを知らずに読んでいたら、もっと楽しめたのかもしれない。読む前にハードルを上げすぎたのかもしれない。
だから今後もきっとまたハインラインを読むだろう。『夏への扉』はあまりに評価が高かったから自動的にハードルを上げすぎたけれど、この作品ほど評価が高くない他の作品なら、もっと素直に読めるだろうから
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たったひとつの冴えたやりかた
※ネタバレあり。

『たったひとつの冴えたやりかた』 
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/浅倉久志 訳 早川書房

タイトルは昔から知っていて、読んでみたいと思いつつ、少女漫画チックな表紙(実際、少女漫画家が描いている)に気後れしてこれまで読む機会がなかった。だっていかにも昔のコバルト文庫みたいな表紙なんだもん(コバルト文庫ってこういう語り口調のイメージ)。コバルト風味の小説が苦手な私は、表紙だけでなく内容もコバルト風味なのではと躊躇していた。
しかも挿絵付きときた。表紙だけならカバーを外す・または上から別のカバーをつけるなどすれば気にならないけど、挿絵となるとどうしても目に入ってしまう。私は基本的に挿絵の入った小説は苦手だ。読みながら、登場人物や情景を自由にイメージできるのが小説の楽しさなのに、そこに挿絵が入るとどうしてもイメージが限定されてしまう。まだ、抽象的でシンプルな挿絵なら読み手が想像できる余地があるけど、この作品は挿絵も少女漫画絵なのだ。その絵が好きな人には申し訳ないが、読みながら自由にイメージを膨らませたい者にとってははっきり言って邪魔。(この場合、その絵が上手か下手かは全く関係ない)

だが最近になって早川から、装丁が変わって挿絵もなくなった単行本が出たと知り、さっそく図書館で借りてきた。ありがとう早川……と思ったら、なんだかえらく薄っぺらい。調べたら、元の中編集からもっとも有名な表題作だけを抜き取って単行本にしたものらしい。……えー、それって、アリなん? 作者が「三部構成の中編集」として出版したものから一作だけ抜き出すとか。確かにもっとも有名なのは表題作だけど、三部構成になっている以上、他の二作も読んでみたかった……と、表紙が変わったら変わったで、今度は構成について文句を言うわたし^^; わがままだなあ。

まあ、元の「三部構成の中編集」はまた後日読むとして、とりあえずこの作品の感想を。「泣ける」と評判の本作だけど、私は泣けなかった。同じく「泣ける」と評判の『アルジャーノンに花束を』は号泣したのに。とはいえ決してこの作品が「つまらなかった」訳ではない。ヒロインのコーティーが昔のコバルト文庫を彷彿とさせるキャラだった時には(やはりこの内容にしてあの漫画絵の表紙だったか)とイヤな予感がしたけれど、読み進めるうちに、いい意味で裏切られた。ライトノベルのような軽いタッチで進みながらも、中盤からどんどんホラー色が強くなり、そして最後の悲劇的結末。コーティーが青春ラブコメに出てきそうな感じの明るく元気なヒロインだけに、後半のホラー的展開と悲劇的結末とのギャップが意外で、私はそこが面白かった。まだ10代なのに人間できすぎてるだろうっていう違和感はちょっぴりあるけど。これから自分の脳を、脳に寄生しているエイリアンに食べられるかもしれないって時に冷静すぎる。最後も、あっさり決心しすぎのような。もうちょっと葛藤するような描写があってから、「たったひとつの冴えたやりかた」を選んだ方がよりリアリティがあったような気もするけど、それだとコーティーのキャラ設定がブレちゃうのかな。最後まで明るく前向きなヒロインという設定が。
コーティーとシロベーンの友情も胸を打つけれど、私がもっとも印象的だったのは、二人の冒険が終わった後。コーティーが残したカセットを聞いている間はシロベーンに対して「くそ忌々しい癌のくせに」と毒づいていたコーティーの父親(親としては当然の反応だが)が、カセットを全て聞き終わった後、コーティーが目指した星を「コーティーの星」と命名しようという通信部長の提案に、「コーティーとシロベーンの星だ。みなさん、もうお忘れかね?」と言い返す場面。はっきりとは書いていないけれど、あれはたぶん父親の言葉だと思う。自分の娘が最後に「シルのことを忘れないで」と言い残した言葉に、応えたのだろう。そう思うとなんとも切ない。

他に気になった点といえば。シロベーンの言葉使いが最後まで礼儀正しい「ですます」口調だったのは、あれは原文でもそうなのだろうか。コーティーがタメ口なのにシロベーンが丁寧語なので、あんまり「対等な友人」という感じがしなかったのがちょっと残念。まあ、翻訳SFに出てくるエイリアンってなぜかたいてい丁寧語なんだけれど。
でもその丁寧語のおかげで、シロベーンがまるで初々しい新入生みたいな印象になっているのも確か。特に連邦基地に送るカセットにメッセージを吹き込む際に、「はじめまして、ヒューマンのみなさん、どうかよろしく!」と話しかけるシーンは微笑ましい。まだ未熟ながらも、ヒューマンと友好的で有意義な交流をしようと精一杯頑張っているのが伝わってくる。今まで読んできたSFの中で一番かわいいエイリアンかも。だからこそ、この真面目で初々しいシロベーンが、原始的な衝動を抑えきれなくなってコーティーを傷つけそうになり、「助けて! わたしは野獣になりたくありません!」と叫ぶシーンが痛ましい。どんなに二人が互いのことを大切に思っていても、それでも「種族の違い」はどうにもならないものなのか……と胸がしめつけられる。
そしてラスト。カセットを全て聞き終えた司令の心の目に浮かんだイメージが美しい。種族の違う二人の子どもが手をたずさえて、太陽へと突進していくシルエット。やはりこの小説に挿絵は不要だ。ラストのハッとするほど美しいイメージは、読者それぞれが自分の心の中で描きたい。
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何かが道をやってくる
※ネタバレあり。

『何かが道をやってくる』
レイ・ブラッドベリ/大久保康雄 訳 創元SF文庫

おかしい。ディーン・R. クーンツが『ベストセラー小説の書き方』巻末の読書ガイドで、この作品を恐怖幻視小説としておすすめしていたから、ブラッドベリのホラー系が好きな私はわくわくしながら読んだのだが。いくら読み進んでも、ちっともホラーっぽくならない。せいぜいダークファンタジーといったところ。あ、でもクーンツのいう「恐怖幻視小説」って、ダークファンタジーのことだったのかも。私が勝手にホラーと解釈しただけか。
しかし、ホラーではなくダークファンタジーだったとしても中途半端だ。幻想的なムードが漂っているのは物語の前半だけで、後半からは急にファンタジー色が薄くなり、敵に追いかけられるサスペンスの連続になる。だがそのサスペンスも、「主人公たちは絶対に死なねーな」と分かりきっているからちっともハラハラドキドキしない。たぶん、ダークファンタジーの雰囲気をまといつつも、根本に流れるテーマは「少年たちの成長物語」「父と子の絆」だからだと思う。最後は「少年が成長してめでたしめでたし」で終わるのが分かりきっているから、死ぬわけがないし。ジムが仮死状態に陥ったときも、ちーともハラハラしなかった。

のっけからぶーたれててすみません(しかも新年最初の記事で!)。私はこういった、少年を主人公にした成長物語が別に嫌いなわけじゃないんだけれど。じゃあなぜ辛口になるかというと、やはり「面白くなかった」という一点につきる。その理由の一つに、主人公である少年たちの魅力のなさがあると思う。特にウィルがあまりにも優等生すぎる。心優しく友達思いで、それでいていざという時には勇敢で行動力があり、賢くて機転が利いて、そして父親が大好きで尊敬している。なにこの完璧超人。普通、このくらいの年頃の少年ならそれなりに親に不満を感じていたり、反発したりするもんだろ。あまりにもいい子ちゃんすぎ。大人の作者が思い描く「理想の息子」って感じで、ちっとも現実の少年ぽくない。まだ、もう一人の主人公であるジムの方がこの年頃の少年らしくて共感できる。
いい子ちゃんといえば、『火星年代記』に収録されている短編『百万年ピクニック』の主人公ティモシィ少年も物わかりの良い、いい子ちゃんだった。もしかしてブラッドベリ自身が、そうした優等生的な少年だったのかもしれない。だが短編ならまだしも、長編の主人公として物語をひっぱっていくには、『何かが道をやってくる』のウィル少年は個性と魅力に欠けるように感じる。作者もそれを感じたのか、終盤ではほとんどウィルの父親が主人公になっちゃってるし(笑)。

主人公だけでなく、敵役の魅力も今ひとつだ。初登場のシーンでは幻想的なムードをまとっていたダークが、後半、単なるガラの悪いチンピラになってしまっているし。(チンピラ風の言葉遣いに訳した翻訳者にも問題があるような気もするが)
主役と悪役に魅力ナシじゃ、そりゃ読み進めるのが苦痛になるわ。実際、後半は「ここまできたら最後まで読み終えなくては」という義務感だけでなんとか読み終えたようなものだもの。そこまで我慢して読んでも、結局最後まであんまり面白くなかったというのが辛い。

私の読解力が足りないせいかもしれないが、解決されていない謎や仕掛けも多すぎる。「地上最高の美女」はどうなった? あの晩、ジムが避雷針を屋根から外して、具体的にはどうなったの? そしてミス・フォレーはあれからどうなった? 彼女は結局幼女にされたまま? 回転木馬に彼女を乗せて元に戻してあげるのかと思っていたら、その回転木馬を主人公たちが壊してしまうし。最後には誰もミス・フォレーのことを思い出しもしないし。
物語の前半であれこれともったいぶった謎の描写をしておきながら、それらが全て肩すかしに終わったようなモヤモヤとした読後感。そういった「謎」は単に雰囲気づくりのためだけで、別に答えなどは最初から用意されていないのかもしれない。しかしそういう作品は私には合わない。「雰囲気イケメン」という言葉があるなら、この作品はさしずめ雰囲気ホラー? いかにもこれから怖くなりそうな雰囲気をかもしだしながら、実際はちっとも怖くないという。

しかしあれですね。ここしばらくブラッドベリにハマってその小説を読んできたけど、たった一作、自分的に「つまらん」作品に当たっただけで、もうしばらくブラッドベリは読みたくなくなるんだから勝手なものだ(笑)。でもそれだけ、読み終えるのに疲れたんだもん……長編だから特に。「きっとこれから面白くなるはず」と我慢して読み進めて、結局最後まで面白くならなかった時の疲労感といったら。と同時に、「ようやくこの本から解放される!」という開放感もまた格別だったりする。困難な仕事をやり遂げた達成感というか。「よくぞ途中で放り投げずに、最後まで読み通した」と自分で自分をほめてあげたい(そこまで言うか)。
冒頭に紹介したクーンツの読書ガイドで、クーンツが「ブラッドベリの本領は短編である」と書いていたけれど、この作品を読んだ後では私も「そうかもなあ」 と。でも最初に読んだ『華氏451度』は長編だけど面白かったし。結局は長編短編関係なく、この作品が私には合わなかったということか。
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ビロードうさぎ
※ネタバレあり。

『ビロードうさぎ』
マージェリィ・ウィリアムズ/いしい ももこ 訳/ウィリアム・ニコルソン 絵 童話館出版

内容は同じでも、酒井駒子の絵と妙訳による『ビロードのウサギ』の方が日本では人気らしく、図書館で貸出中になっていたのも酒井駒子バージョンの方。なので、妙訳ではない「原文」をそのまま訳したこちらの本を借りてきた。結果的に、先にこちらを読んでよかったと思う。90年に渡って読み継がれてきた名作は、やはり抄訳ではなく原文そのままで味わいたい。というか個人的には、いくら原作が子どもにはちょっと長いからといって、部分的に訳して出版するというのは、原作への敬意を欠いた行為に思えて好きになれない。長年に渡って読み継がれてきた名作であればなおさら、原文そのままをこどもに与えるべきじゃないだろうか。原文の長さだけでなく内容も、子どもにはちょっと難しいと思われるからこその「抄訳」なのかもしれないが、それは子どもの受容力を低く見積もり過ぎている。自分の子ども時代を思い返しても、最初に読んだ時にはよく分からなくても、想像力を働かせてなんとか受け入れようとしたし、年齢を重ねてから読み返して、より深く理解できることに喜びを感じたりする。もちろん一度読んだらそれっきりという本もあるけれど、この本は年を重ねてからの再読にも充分耐えうる内容だ。
イラストも、いかにも子ども向きの「かわいい」絵柄じゃないので初めはとっつきにくいかもしれないが、見れば見るほど味が出てくる実にいい絵だ。特に見返し部分に印刷されたビロードうさぎのパターン(模様)は秀逸。この柄のカーテンがほしい。
日本人画家が描いた、より子ども向き(というか日本人向き?)の「かわいい」絵柄のうさぎが出てくる酒井駒子バージョンの方が人気があるのも分かるけれど、それによって、原文を忠実に訳したこちらのバージョンがあまり読まれなくなっていくのは残念だし寂しい。原文に忠実というだけでなく、いしいももこの訳も素晴らしい。日本語の美しさ、味わい深さをしみじみと堪能できる。

内容について。読みながら、なぜ「ほんもの」と訳さずに、「ほんとうのもの」と、あまり耳慣れない日本語に訳しているんだろうと思っていたが、読み進めるうちに「なるほど」と。原文では「ほんとうのもの」と「ほんもの」をそれぞれどう表現しているのだろうかと、原文を確かめたい気持ちになった。
面白かったのは、今では「レトロ」「古き良き時代」の代名詞のようになっている「機械仕掛け」「ゼンマイ仕掛け」が、この本の中では最先端のハイテクおもちゃとして登場すること。この本が出版されたのは1922年。時の流れを感じずにはいられないが、どれだけ時が流れても、決して変わらないものもある。お気に入りのおもちゃにかける子どもの特別な愛情も、そのひとつだろう。ぎゅっと抱きしめたり、ベッドで一緒に寝たり、顔にキスしたりして、子どもがそのおもちゃを愛すれば愛するほど、おもちゃはぼろぼろになっていく。でもそうやって「ながいながい間、そのおもちもゃをただの遊び相手ではなくて、しんからかわいがっていたとする。そうするとそのおもちゃは、ほんとうのものになるのだ」。
この本に出てくるビロードうさぎも、ながいながいときを「ぼうや」に愛されて過ごすことで、すっかり古ぼけたみすぼらしい姿になっていく。ビロードがすり切れ、ひげはみんな抜け落ち、形も崩れて、もうぼうや以外の人にはうさぎだとは分からないほど。だがただ一人、ぼうやにだけはまだ美しいうさぎだったのだ。そしてうさぎも、他の人たちにどう見えようと、そんなことはどうでもいいと考える。自分を愛してくれるぼうやにとっては「ほんとうのうさぎ」なのだから、自分のみすぼらしさなど気にする事はないのだと。

見た目の立派さや美しさにとらわれずに、ほんとうに大切なものを見つけて、それを愛するということ。そんなメッセージがこめられているように思うこの作品が、原文をそのまま訳したバージョンではなく、かわいい絵がウリの抄訳バージョンの方が人気があって有名だというのは、ある意味皮肉ともいえる。結局みんな「見た目」優先なの? というか。もちろん酒井駒子の絵はただかわいいだけでなく、情緒にあふれて素晴らしいんだろうけれど、文章が「抄訳」であることが、どうしても私にはひっかかる。冒頭にも書いたように、古典的名作は「何も削らず、何も足さない」オリジナルなバージョンを伝えていくべきだと思うから。
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火星年代記
※ネタバレあり。

『火星年代記』
レイ・ブラッドベリ/小笠原豊樹 訳 ハヤカワ文庫

ブラッドベリって、自国アメリカを批判的にとらえているように見えて、実は自国大好き、自分の住む町大好きな人だったんだろうなあ……というのが率直な感想。だってせっかく安全な火星に移住してきた地球人たちが、地球で核戦争が起こったとたん、故郷が心配になってほとんど地球に帰ってしまうんだもの。ありえない。私ならぜったい戻らない。わざわざ死にに行くようなものだもの。
だがこの作品の地球人たちはいっせいに地球に戻る。なぜ?「故郷を見捨てられないから」という理由だけでは弱い気がする。しかしこの作品では、「あえて地球に戻る理由」はそれ以上深く追求されない。きっとブラッドベリ自身が「故郷や故郷の人々が危険にさらされたら、戻るのが当然」と考えていたからだろう。
……でもなあ。核戦争をおっぱじめた地球から逃げるならともかく、わざわざ戻るっていうのは、愛国心の薄い私にはちょっと理解できない。それまでは作品世界にひたりきって読んでいたものの、この部分がどうにも理解できないから、ここから先はあまり感情移入できずに読み終えてしまった。
せめて戻るとしても家族全員じゃなくて、戻るのは父親だけで、母親と子どもは火星に残るとかすればいいのに。なぜ家族そろって、放射能うずまく地球に戻るんだろう。これって被爆国に住む日本人と、そうではないアメリカ人との「核の恐ろしさへの認識の違い」だろうか。この作品の地球人たちはたぶん、核戦争を始めた地球に戻っても、軍人として戦闘に参加しなければ、町で安全に生活できると思っていたのではないだろうか。放射能の恐ろしさを知らないというか。「優しく雨ぞ降りしきる」の一家も、核爆発の光線で一瞬にして亡くなったようだし。放射能を浴びてじわじわと死んでいった……というような描写はどこにもない。

それにしても第三探検隊までが火星人に殺されて、いったいどうやったら地球人は火星人に受け入れられるんだろうとドキドキしながら読んでいたら、次の話ではあっけなく火星人が絶滅していて拍子抜け(笑)。地球人が火星人に受け入れられていく「過程」を、もうちょっとじっくり読んでみたかった気もする。

それと物語のラスト、火星に残った「最後の地球人」が、なぜウォルター・グリップではなかったのだろう。向こう100年間食いつなげるだけの食料を冷蔵庫にためこんでいたはずなのに。地球に戻ろうというワイルダー隊長の誘いも断ったのに。彼はいったいどうしたのだろう。どこに行ったのだろう。彼が主役の「沈黙の町」は好きな話の一つだ。全体的にコメディタッチなんだけど哀愁がある。できれば物語の最後に彼が念願の花嫁を見つけて、二人が「火星のアダムとイブ」となって新しい道を切り開いてほしかった。最後に出てきたティモシイの一家もいいけれど、彼らはすでに「家族」だし。それより独り身のウォルター・グリップが伴侶を見つけ、幸せになってほしかったな。

他に印象的なお話は、「地球の人々」「第三探検隊」「夜の邂逅」「火の玉」「火星の人」「長の年月」そして「優しく雨ぞ降りしきる」。
とりわけ「第三探検隊」が面白かった。どうも私はこの作家のホラー寄りの作品が好きらしい。
それにしてもこの作家は本当に作風が幅広い。オムニバス短編集の中に、ありとあらゆるジャンルの作品がつまっている。上記のようなホラー系もあれば、「沈黙の町」のようなコメディ系もある。他にもラブストーリーあり、銃で撃ち合うアクションものあり、キリスト教ベースのスピリチュアルものありと、実にバラエティ豊かだ。一歩間違えると散漫な印象にもなりかねないが、ぎりぎりのところで「一つの連続した物語」としてまとまっているのは、やはり独特の叙情あふれる文章のゆえだろう。作品ジャンルはバラバラでも、どの作品にもなんともいえない詩情が漂っているから、一連の物語として成り立っているし、読者は作品ジャンルの雑多さなど気にならず、どっぷりとその世界にひたることができる。
まあそうは言っても個人的に「第二のアッシャ−邸」だけは、この一連の物語から「浮いている感」がぬぐえなかった。それはこの作品だけは、火星が舞台である必要性をあまり感じなかったからだろうか。


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