何年たっても、まだ狂ってる。
Still Crazy After All These Years (Paul Simon)
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道ありき〈青春編〉
※ネタバレあり。

『道ありき〈青春編〉』
著者:三浦綾子/新潮文庫
 
「前川正さんや三浦光世さんなど、綾子さんは次々に素晴らしい人に恵まれて、うらやましい」「しかもその人たちに愛されるんだから、本当に神様に選ばれた人だよね」
「三浦綾子読書会」でこの本を読んだ感想を語り合ったとき、他の人たちから出てきた意見である。確かに前川正や三浦光世は、クリスチャンの中でもかなり希有な存在で、ここまで「できた人物」はなかなかいない。その信仰はもちろん、性格もいつもやさしく穏やかで、それでいて芯はしっかりしており、堀田(三浦綾子の旧姓)綾子を守り励まし、背後から支えていく。とりわけ前川正は、彼女の「道しるべ」として、彼女を神の道へと導いた。彼は言う。「人間はね、一人ひとりに与えられた道があるんですよ」。堀田綾子に与えられた「道」とは、全国の人々をその著作や手紙で励ます「文書伝道家」としての道だった。そしてその働きのために、三浦光世が「パートナー」として備えられた。彼女の著作のほとんどは、病床にふした彼女が話す言葉を三浦光世が書き写す「口述筆記」のスタイルで書かれている。
素晴らしい人たちと出会い、結婚し、作家として活躍した彼女の生涯は、確かに一般人からみると「うらやましい」かもしれない。だがそれはこの自伝で、彼女の心の内面を読んでいるからこそ、そして後年の作家活動を知っているからこそ、そう思えるのではないだろうか。それらを一切知らずに端から見れば、彼女の前半生はうらやましいどころか、めちゃくちゃ過酷である。もし私が彼女のような試練を受けたら、「どうして私ばっかりこんな目に」とやさぐれること請け合い。13年間の闘病生活、しかも後半の7年間は、脊椎カリエスでずっとベッドに寝たきりだった。仰向けの状態で、ギプスで首から背中までをがっちり固定された「絶対安静」。ベッドに上半身を起こすことすらできない。人生でもっとも華やかなはずの20代〜30代にこれは辛い。さらに追い打ちをかけるように、彼女を支えてきた恩師や恋人が相次いで永眠し、彼女を置き去りにしていく。悲しみの極限にあってもなお、寝たきりの彼女は葬儀に行って最後の別れを告げることもできず、それどころか顔も動かせず、ただ天井を見上げて泣くしかない。最愛の人・前川正に先立たれたときも、シーツに顔をうずめて身もだえることすらできないと嘆く場面は、この物語の中でもっとも悲痛な場面である。

「確かに辛くて長い闘病生活だったけど、それでも素晴らしい人たちに支えられて、最終的にそのうちのひとりと結ばれたんだからいいじゃないか」という意見もあるかもしれない。だが前川正や三浦光世も、彼らを愛した彼女の筆で描かれるからこそ素晴らしい人格者に見えるが、いや実際にそうなのだろうが、世間一般の基準からすると「ちょっとヘンな人」に見えないこともない。前川正が「信仰のうすい僕ではあなたを救えない。だからふがいない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」と自分の足を石で打ちつけるシーンなど、私は感動するどころか、ちょっと引いてしまった。「なにこのウザったい自虐アピール。一歩間違えると、単なる“かまってちゃん”じゃん」と。だが堀田綾子は、彼のその行動に大きく心を突き動かされ、「そこまでして、自分を救おうとしてくれている彼の愛」を信じてみようという気になった。それは彼女もまた、真剣だったからではないだろうか。自分では「生きる目的を失い、虚無的に生きている」つもりでも、心の根っこの部分は昔と変わらず真剣だった。肺結核なのに煙草を吸っていた時ですら、「真剣に不良をしている」という感じ。だから前川正の「ちょっとやりすぎでは」というほどの真剣さに心打たれた。友人を救おうとする彼の真剣な魂と、生きる目的を探していた彼女の真剣な魂がふれあったのだ。

後に結婚する三浦光世にしても、世間一般の「魅力的な男性」像からは微妙にズレている。面白かったのは、作者が地の文で三浦を「気が弱い」と評しているところ。一般的に「気の弱い男」は男性的魅力に欠け、恋愛対象になりにくいといわれている。女性は、口では「やさしい人がいい」と言いながらも、心のどこかでは強い男に頼りたい、守られたいと思っているから、だそうだ。
だが堀田綾子は、彼女自身が「気が弱い」と評している三浦に惹かれた。表面的な男らしさよりも、彼の真摯な信仰や誠実さといった、内面的な魅力を愛した。それはすでに当時、彼女がクリスチャンになっていたから……というのは理由にならない。クリスチャンでも、相手の表面的な部分だけを見てしまう場合は往々にある。しかし堀田綾子は違った。なので「綾子さんは素晴らしい人たちに恵まれた」というよりも、「素晴らしい人たちだと気づくことができた」という方が近い気がする。

よく「幸せかどうかは、その人の感じ方で決まる」という。「神に選ばれた」というのもそれと同じで、何も堀田綾子だけが特別に選ばれたのではなく、「選ばれたかどうかは、その人がそれに気づけるかどうかで決まる」と思う。それこそ、「人間には一人ひとりに与えられた道がある」のだから。彼女はその道を見つけることができた。私たちはどうだろうか。自分に備えられた「道」を見つけるためにも、もっと真剣に生きてみようか。そんなことを考えさせられた。


以上が、この作品への好意的な感想。ちょっと辛口な感想としては、もし堀田綾子(結婚前の彼女)が私の身近にいても、恐らく友達にはなれなかっただろうと感じる。私がというより向こうから、私と友達になることを遠慮しそうだ。「文学や哲学などの高尚なテーマについて話せる、高学歴の男」としかつきあいたくなさそう。そう思えるほど、彼女には男友達が多く、女友達は全くといっていいほど登場しない。
「女友達が少なく、男友達が多い」女性というと、同性に嫌われるぶりっ子タイプを連想するが、決してそういうタイプではなく、むしろその逆。「なんでもズケズケと言えるワタシ」のシーンが随所に出てくる。でも実際、その率直ではっきりした性格が、周囲からは魅力的に映ったのだろう。寝たきりになる前はもちろん、寝たきりになってからも、たくさんの男友達が見舞いに来たらしいし。普通に「たくさんの友達がいた」とは書かず、わざわざ「たくさんの男友達がいた」と書くあたりが彼女らしい。しかもその後に、「わたしを愛しはじめている人もいたし、恋人がいながら私に惹かれて、苦しんでいる青年もいた」とか、別に書かなくてもいいようなモテ自慢が続く。だが書いている本人には決して「自慢」という意識はなかっただろう。つまりナチュラルにモテアピールしているわけで、彼女の小説のヒロインが揃いも揃ってモテるのも納得。ヒロインに自分を投影してたんですね。
ナチュラルといえば、二人の男と同時に交際する、いわゆる「二股」もナチュラルだ(笑)。まあそれはいいとしても、二股かけていたうちのひとりの男が、実は人妻とつきあっていたのを知って憤慨し、その人妻をわざわざ「やや肥り気味の女」と形容するところが笑えた。性格わるっ。でもそういう欠点の多い女性だからこそ、彼女を救い、用いた神の計画の不思議さを実感できるともいえる。

総括としては、いろいろと考えさせられる、面白い作品だった。人によってはこの作品が、試練の時に自分を励ます「信仰の書」にもなるのだろうけど、私はあくまで「一女性の自伝」として面白く読んだ。それにしてもこの作品、10代の頃にも一度読んだはずなんだけど、全くといっていいほど内容を覚えてなかった。たぶん10代の自分には、作者の心情があまりピンとこなかったのだろう。
今、この作品を書いた頃の作者と同じ年代になって、ようやくその心情がリアルに感じられるようになったということだろうか。優れた作品というのは、何度読んでも新しい発見がある。将来、またこの本を読み返すことがあったら、今度はどんな感想を抱くのだろうか。
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