何年たっても、まだ狂ってる。
Still Crazy After All These Years (Paul Simon)
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鬼ゆり峠

『鬼ゆり峠』〈上〉〈下〉
団 鬼六/幻冬舎アウトロー文庫

※ネタバレあり

6年ぶりに再読。結末も含めただいたいのあらすじは覚えているけど、細かい内容は忘れていたから、新鮮な気持ちで読み進められた。

団鬼六は偉大なワンパターン作家だ。彼のメーンフィールドである官能小説に限っていえば、話の内容は「高貴な女性が監禁されて、身分の低い下種な男女に陵辱される」ものばかり。「上流の女=清く正しい性格で、容貌も美しい。下流の男女=ひねくれたいじわるな性格で、容貌も醜い」という設定もお決まりだ。
確かに文章は流麗で読みやすい。だからスイスイと気持ちよく読み進められる。が、表現のボキャブラリーが少ないように感じることも。何度も繰り返し同じ表現が出てくる。誤字脱字もわりとある。これは作家のせいというよりも、掲載誌であるSM雑誌編集部の校正不足ではないかと思う。

私が初めて「団鬼六」の名を知ったのは、学生時代に書店でアルバイトをしていたとき。売場に本を並べていたら、当時、角川文庫から出ていた『花と蛇』が眼に留まったのがきっかけだ。角川にしては扇情的な表紙に興味をひかれて、休憩時間にその本をぱらぱらと開いたところ、独特の文体に一気に引き込まれた。ちょうど京子が責められている場面で、えんえんと続くその責め描写にこれはエッチな小説だと気づき、ちょっとうろたえたものの、かわいそうな京子の運命が気になって、彼女が解放されるまで読もうと思った。
そう、その時はまだ、酷い目にあっている奴隷は必ず最後には解放されて、悪者たちがやっつけられると信じていたのだ。
だがその本は官能小説で、しかもSMだった。京子への責めはえんえんと続き、さらに新たな奴隷として小夜子がとらわれる。うんざりしてきた私は結局、その一冊を読み終えただけで、それ以上そのシリーズを読むことはなかった。
だがあの独特の流麗な文章にはひきつけられた。

それから20年くらいたった頃だろうか。『花と蛇』は一般的に団鬼六の代表作といわれているが、実はそれと並んで『鬼ゆり峠』もかなり評価が高いことをネットで知った。時代物というのにも興味を惹かれた。『花と蛇』は途中で飽きて読むのをやめたけれど、久しぶりにあの美しい文章にひたりたくて、『鬼ゆり峠』も読んでみようと購入したのだ。
が、初めて読んだそのときは、どんな感想を持ったのかよく覚えてない。覚えてないってことは、たぶんそんなに感動しなかったんだろう。「官能小説に感動?」と思われるかもしれない。だが今回の再読で私はこの小説に感動し、特に物語の終盤ではずっと涙を流しながらページをめくっていたのだ。

確かに残酷で救いのない物語かもしれない。だが、これほど美しい物語もそうそうない。汚虐の極みの中にあるからこそ、よりいっそう美しく輝く姉弟の絆。この小説はジャンルとしては官能小説だが、その根底に流れるテーマは、最期の瞬間まで互いを思いやる姉弟の純愛にあるように感じた。

そう、これは姉弟の物語である。
被虐対象となる主人公が姉妹ではなく、姉弟というのは、団鬼六作品ではわりと珍しい。官能小説という性格上、それは当然だ。読者対象は圧倒的に男性だから、姉と妹、または母と娘など、タイプの違う美女二人を責めるストーリーが主流を占める。
『鬼ゆり峠』の原型といわれている、この小説より先に発表された団鬼六の『無残花物語』もそうだ。確かにストーリーは『鬼ゆり峠』によく似ているが、こちらの主人公は姉妹。一応、妹の婚約者である美青年も、姉妹とともに悪漢たちにつかまるのだが、彼の出番はほとんどなく、もっぱら被虐対象は姉妹の方だ。

『無残花物語』も悪くはないが、やはり『鬼ゆり峠』の方が圧倒的に面白く、物語生がある。基本となるストーリーに違いはほとんどなく、あるとすれば主人公の姉妹を姉弟に変えたことくらいだが、実はこの変更がけっこう大きい。

ヒロイン浪路の弟の菊之助は、由緒ある武家の家柄である、大鳥家の後継者という設定だ。この設定は男である「弟」ならではで、武家女である浪路が、家を継ぐ事になった菊之助の命だけは救おうと、執拗な陵辱に耐える姿勢に説得力を持たせている。浪路が家名を守ろうと陵辱に耐えれば耐えるほど、浪路の武家女としての矜持が引き立ち、そんな高貴な女性を陵辱し、ついには屈服させる描写に読者は興奮するのだろう。

「菊之助が大鳥家の後継者に決定した」ということは、悪漢達に捕われる直前、旅館にいる姉弟に、姫路からの手紙で知らされる。
父親が殺され、大鳥家が取り潰しになるのではと心配だった浪路にとっては待望のニュースで、浪路は久しぶりに心から幸福そうな微笑みを見せる。
女中の千津も、菊之助に「若様、おめでとうございます」と祝いの言葉をかけ、菊之助が照れるという、微笑ましいシーンなのだが、この「菊之助が大鳥家の後継者に決定した」という喜ばしい知らせが、後にこの姉弟に自害を許さず、えんえんと地獄に縛り付ける「足かせ」になるのである。だから後から読み返すと、この時の千津の「おめでとうございます」の言葉が実に皮肉でいい。

捕らえられたのが一人ではなく、姉弟二人というのもポイントだ。もし、捕らえられたのが自分一人なら、浪路は素っ裸にされた時点でさっさと舌を噛んで死ぬだろう。だが大鳥家の後継者である弟を救い出すまでは、死ぬに死ねないのだ。
その後も、浪路が屈辱に耐えきれず舌を噛みたいと漏らすたびに、悪漢たちから「浪路どのが死ぬと、菊之助も処刑する」と脅される。弟を救って家名を守るためには、執拗な陵辱に耐え続けるしか道はない。浪路が「自分一人ならとうに舌を噛みきって死ねるのに」と、ふと菊之助を恨めしく思うシーンは、それまで弟思いの姉として描写されてきた浪路だけに、どきっとする意外性がある。と同時に、浪路の屈辱感がひしひしと伝わってくる。このあたりの心理描写のうまさが、この小説が一部から「団鬼六の最高傑作」といわれている理由の一つだろう。

家名を守るために、執拗な陵辱に耐え続ける浪路。また菊之助の方も、敬愛する姉から「耐えるのです。決して自分で命を断つような真似をしてはなりません」と何度も厳しく命じられているので、どんな屈辱を受けても死ぬことができない。彼は物語の序盤、悪漢達につかまった時点で、「これ以上、生恥をさらすよりいっそ、この場で舌を噛みーー」と漏らすのだが、浪路は「なりませぬっ」と強い口調で叱咤するのだ。

「あなたがここで死ねば大鳥家は断絶、お殿様やご家老様を裏切ったも同然のことになる。私は見苦しいあがきと思われても、最後の時がくるまであなたの命を守り抜くつもりです」
大鳥家を断絶させてはならぬ、という点に浪路は異常な執念を見せるのだった。(『鬼ゆり峠』上巻より)

その後も浪路は、さらに過酷になっていく陵辱に耐えきれず、自害を選ぼうとする菊之助に、ひたすら「耐えるのです。最後の最後まで、望みはあります」と叱咤し続ける。すでに物語の結末を知っている私は、そういう浪路が自己中心的に感じることもあった。浪路は菊之助の辛さを思いやるよりも、お家断絶の方を恐れて、つまり武家女としての矜持を守るために、菊之助に自害を許さず、「耐えるのです」と非情な命令を下しているように思えたからだ。そんな浪路に、「そこまでして私たちは命を守らねばならぬのですかっ」と反発しながらも、それでも最後まで従おうとする菊之助が哀れだった。

だが物語の終盤、いよいよ処刑される日。浪路はそっと菊之助の手をまさぐりながら、「死ぬより辛い恥ずかしめをよく姉と一緒にここまで耐えてくれました」といたわり、だがその努力が徒労に終わったように感じて、「菊之助、浪路はあなたに何と詫びていいか分かりませぬ」と嗚咽するのだ。私はここで涙がこぼれた。不屈の精神力を持ち、ここまで体は陵辱され尽くしても決して精神は屈しなかった浪路が、遂に敗北を認めて、弱さをさらけ出した瞬間に思えた。

嗚咽しながら「菊之助、許して」と繰り返す浪路。そんな浪路に、菊之助は「いいえ、姉上。菊之助は幸せでございました。美しい姉上を妻にできたのですから。今生に思い残すことはございません」という。その言葉は、浪路を慰めるための詭弁だろうか。それとも彼は、姉弟相姦を強制されているうちに、いつしか姉を愛している自分の気持ちに気づいたのだろうか。そしてそれは、彼が最後の最後になって得た「望み」ではなかったか。ーーたとえそれが、浪路が言い続けていたような「望み」ではなかったとしても。
この菊之助の言葉についての、私の考えはこうだ。彼は17才という若さで無念の死を遂げねばならぬ自分を納得させるために、「敬愛する姉上を妻にできたのだから、もう思い残すことはない」と、いわば自分に言い聞かせたのではないだろうか。だが真意は分からないし、別にどちらでもいい。そんなことよりもこのシーン、初めて浪路と菊之助が強制ではなく、自らの意思で抱き合い、唇を触れ合わせる描写が美しく、胸を打つ。

二人は最後の別れの際にも、衝動的に緊縛された裸身をぶつけ合う。
「許して。武士の子であるあなたにこんな恥ずかしめを与え続けたこの浪路を許して」
「いいえ、恨みには存じませぬ。菊之助は姉上と共にこの恥ずかしめに耐えぬき、ようやく共に死ねるのだと思うと幸せでございます」

陵辱がいよいよ激しくなってきた物語の中盤では、「死んではならぬという姉上を恨みます」とはっきり姉に毒づいていた菊之助だが、いよいよ処刑という段になって、彼は姉を許したのだ。私はここに、この物語の「救い」を感じた。

姉弟は引き離されようとする直前、名残りを惜しむように強く唇を重ね合い、舌を吸い合う。
二人が互いに向ける愛情は姉弟のそれか、それとも男女のそれか。読者にもわからなくなってくるところがこの小説のキモで、これもこの小説がよくある姉妹ものではなく、姉弟ものであるからこそ、だろう。

だが浪路と菊之助の関係が、単なる姉弟以上のものであることは、小説の前半からうっすらと暗示されている。

それは先に紹介した、この小説の元ネタである『無残花物語』と比べるとよく分かる。『無残花物語』のヒロインお蘭は人妻で、だから憎い父の仇に陵辱されたとき、真っ先に心の中で(あなた、許して)と夫に詫びるのだ。それは人妻として、ごく全うな心理だろう。
だが『鬼ゆり峠』は違う。人妻である浪路は、憎い父の仇に陵辱されたとき、なぜか夫ではなく、弟の菊之助に(菊之助、許して)と詫びるのだ。そしてその後も、陵辱されるたびに、浪路は心の中で菊之助だけに詫びる。夫には遂に一度も詫びなかった。

おかしいだろ。

別に浪路が夫と不仲であるとか、そんな描写は一切ない。浪路の夫が不能で、浪路が性的に満足していないという設定はあるものの、普通に仲睦まじい夫婦という設定だ。なのになぜ。読みながら、ちょっと浪路の夫が不憫になってくる私であった。

 

■かわいそうな人たち
仕置き場につれていかれた姉弟は、遂に処刑される。ヒロインが処刑されたことを匂わせて終わる鬼六作品はわりとあるが、この『鬼ゆり峠』のように、はっきりと処刑シーンを描いた作品は珍しい。そしてそのことが、この作品を「鬼六作品にしては最高レベルの凄惨さ」といわしめているのだが、私はこうした残酷描写は時代ものならではで「アリ」だと思う。
それに、処刑シーン、それも潔い処刑シーンを書いてもらえる登場人物たちは幸せだ。人間の真価は、極限状態でどういう態度をとれるかで決まるからだ。
浪路は最後まで菊之助の命を救うことをあきらめず、救援隊が来るまで時間を稼ごうと、自ら痴態を演じてみせる。その健気さ。 菊之助は、自分の愛刀で玉を斬り落とされるという屈辱に耐え、観念して静かに処刑を待ち受ける。その潔さ。物語の導入部で、同じ玉斬りで処刑された雪之丞という登場人物がいるのだが、最後まで「嫌っ、嫌ですっ」と抵抗していた彼とは対照的だ。というか、雪之丞は玉斬り刑の残酷さを伝えるためだけに出て来たような人物で、この物語中、もっともかわいそうなのは実は彼だと思う。かっこいいシーンは一つもなくて、ただみっともなく泣きわめくだけの役回り。おまけに彼の恋人だったお小夜は、彼の死後、コロッと菊之助に乗り換えるし。お小夜切り替え早すぎ。

※余談だが雪之丞は、射精直前に完全に「女」になりきったり、自分を責める相手に気を配るところなど、作者が晩年に書いた『美少年』の菊雄の原型のように思える。というか、作者が精神的にいじめたという、実在のオカマちゃんがもともとの原型か。

だがお小夜もお小夜でかわいそうである。愛した男が二人とも、次々に玉斬りで処刑されるとかトラウマものだ。
それに、菊之助と相思相愛になったと思いきや、実はお小夜の片思いだったことが、物語の終盤で分かってくるし。菊之助は衝動的にお小夜と唇を重ね、お小夜の愛の告白に「菊之助もお小夜どのをもう離したくない」と応えるものの、それはどうやら本心ではなく、お小夜を傷つけないようにとりつくろっただけらしい。その証拠に、お小夜が菊之助を好きだという心理描写はあっても、菊之助には一切ない。
処刑の直前も、菊之助は「姉上、おさらばでございますっ」と浪路にだけ挨拶して、目の前にいるお小夜はスルーだし。お小夜立場なし。

 

■貫かれた「滅び」の美学
姉弟は陵辱され尽くしたあげく、性器を切断されるという無様な死を遂げる。「あまりにも救いのない物語」という感想も多いが、果たしてそうだろうか。武家女と武士の誇りを無残に打ち砕かれた姉弟にとっては、死は「救い」ではなかったか。浪路はたとえ救援隊に救われても、その後自害する決意でいたし、菊之助もまた、姉が死んで自分一人が助かるよりは、このまま姉とともに死ぬことを望んだ。
千津から救援隊が近づいていることを知らされた菊之助は、「千津。気持ちはありがたいが、たとえ、今、救い出されたとしても、菊之助は生きていく自信がない」と言う。姉上は、菊之助が救われるのを見届けて、自害する決意でいる。そのようなことはさせぬ。姉上だけ死なせて、どうして一人生きてゆけようか、と菊之助は泣く。
そんな菊之助を情けないと思う読者もいるだろうが、私は彼の気持ちがわかる。姉への思いはそれほどまでに強く、またそれほどまでに受けた陵辱が過酷で、とても自分一人だけで抱えきれるものではないのだろう。
彼にとって浪路は、ともにあらん限りの陵辱を受けた同志なのだ。姉だけが彼の辛さを分かってくれる。その姉が死んだら、自分一人で地獄の体験を抱えて、生きていかなければならない。それはあまりにも辛いのだろう。
だから、もし最後、姉弟が救出されたと仮定する。物語としてはハッピーエンドだし、読者はほっとするだろうが、私はこの姉弟がその後、幸せになれるとは思えない。浪路は自害するだろうし、それを見た菊之助も後を追うか、または精神を病んでしまうのではないだろうか。
それを思うと、姉弟がともに死んで行くこの結末は、もはや「これしかない」見事な締めくくり方だと思う。

姉弟はともに陵辱を受け、ともに死んでいく。団鬼六は妥協することなく、徹底した「姉弟の悲劇」を書ききったのだ。その姿勢には美学すら感じる。

姉弟ものは鬼六作品ではわりと珍しいと先に書いたが、姉弟揃って処刑されるというのも、実は珍しい。姉妹ものの場合、たいていメインヒロインである姉だけが処刑されて、妹は生き残る。
この作品でも、浪路が必死で救おうとしてきた菊之助だけは最後に助かるのかなと読者に思わせておいて、二人とも処刑されるという救いのなさ。だがそのことがいっそう、この作品を忘れ難くしている。
登場人物の死は、それが衝撃的であればあるほど、登場人物の生き様を鮮烈に引き立たせ、読者の脳内に強く刻み付けられる。
読み終えて本を閉じた後も、登場人物は読者の脳内で永遠に美しく咲き続けることができるのだ。

 

■男にも「奉仕」する男たち
官能小説なので、物語の中心は、囚われた姉弟が「これでもか」とばかりに責められるシーンになる。責めといっても、そこは団鬼六、肉体を痛めつける描写はほとんどない。この作家の特色である「羞恥責め」が中心で、大衆の前で姉弟を徹底的に辱める。尿意を極限まで我慢させ、耐えきれずに皆が見ている前で放尿させたり。男性器に鈴をくくりつけ、腰をゆすってその鈴を鳴らすことを強制したり。由緒ある武家育ちの姉弟だからこそ、青竹でぶったたかれるような単純な責めよりも、そうした「精神的な責め」の方がよほど辛い。

もちろん羞恥責めだけでなく、実際に体を陵辱される場面も多い。だがそれらのシーンも、男が一方的に自分の欲望を満足させるのではなく、逆に男が女に奉仕する形になっているのが団鬼六の特徴だ。女が最高の快感を得られるよう、男たちは徹底的に奉仕する。形としては女を縛りつけての陵辱だが、男たちが実際にやっていることは奉仕で、精神的には、逆に男が女の奴隷になっている。団鬼六がフェミニストといわれるゆえんだろう。

だから団鬼六の小説は、責められる女がどんな風に快楽にひたっているかは丁寧に描写されても、責める男の快楽射精描写はほとんどない。それもそのはず、男は自分の快楽は後回しで、女に最高の快楽を与えるために奉仕している奴隷だからだ。

SMとは女を責めさいなむ残酷な行為ではない。SMとは男が女を責めているように見えながら、実は男が女の美しさを引き出し、その美しさに身も心も捧げていく心優しい献身である。(中略)団鬼六のSM小説は、このことを言い続けている。(川本三郎「お柳情炎」解説より)

この小説で面白いのは、ヒロインの浪路だけでなく、その弟の菊之助も被虐対象になっていることだ。いくら女と見まがうばかりの美少年とはいえ、それでも男には変わりない。だがその男に対しても、悪役の男たちは奉仕する。熊造が菊之助を犯す場面、熊造は何度も射精しそうになりながら、それを歯を食いしばって我慢する描写がある。自分一人がさっさと先に射精するのではなく、今、自分が犯している菊之助をもっともっと高ぶらせてから、二人一緒に思いを遂げようとするのだ。こんなことは現実の強姦ではありえない。自分一人がさっさと射精して、欲望を満足させるはず。だが熊造はうっかり先に射精した後も、菊之助のそれを握りしめている伝助に「ぼんやりしねえで早く昇らせてやらなきゃ駄目じゃねぇか」と叱咤するのだ。こんな気遣いにあふれたレイプ犯がいるだろうか。

もちろん、そうして望まぬ絶頂に追いやられることが菊之助にとって最高の屈辱だと分かっているから、熊造はそうするのだが。だが自分一人が楽しむのではなく、抱いている男にも最高の快楽を与えようとする彼の行為は実に献身的である。
そうして熊造がたっぷりと「奉仕」したことで、菊之助は相手が憎い父の仇ということも忘れるほどの快楽に溺れ、熊造とうっとり口づけを交わすほどになる。それを見てキャーと黄色い声を上げるお銀とお春、あんたらは元祖腐女子か。(この小説が書かれたのは1970年代)

熊造はそれ以外でも、薄暗い地下の階段を縛られたまま降りて行く菊之助に「足元に気をつけるんだよ、お坊っちゃん」と声をかけるなど、妙にやさしい。重四郎もまた、浪路がめまいをおこしかけると「大丈夫か」とその肩を支えるなど、被虐対象に気遣いを見せる。終盤になると、重四郎はさらに浪路に対して感傷的になり、雲助たちが勝手に浪路に触ろうとすると、叱りつけて手出しを許さないシーンもある。
重四郎にはまた、「形見にする」ため、姉弟の尿を混ぜ合わせて、それを徳利に入れて一人悦に入るシーンがある。女だけでなく男の尿まで徳利に注ぎ、それを揺すって尿が流れる音を楽しむなんて、普通の神経では考えられないが、重四郎は姉弟の尿をまるで聖水のように大事に扱う。それは彼が、精神的にはこの姉弟の奴隷になっているからに他ならない。

と、いうようにこの小説、女だけでなく男も被虐対象になっていることで、「責める側が被虐対象の奴隷になる」という鬼六作品の特徴が、よりはっきりと現れているように思うのだ。


それにしてもーーいくら衆道が盛んな江戸時代の話とはいえ、出てくる男たちがどいつもこいつも揃って衆道の趣味も持ち合わせてるってどうなのよ(笑)。姉弟が裸で縛られていて、それを見た男たちが真っ先に食いつくのはもちろん浪路なんだけど、続いて菊之助の裸にもねっとりと好色な眼を注ぐ、そんな描写がたびたび出てきて、なんというか、「鬼六先生も律儀だなあ」と。主な読者層は圧倒的にノーマルな男性だろうし、そんなに何度も「淡い小麦色の、しなやかで滑らかな裸身」とかしつこく男の体を描写して、喜ぶ読者がいったい何人いるのかと。
だから終盤、「俺には稚児遊びの趣味はねえ」と、菊之助を責めることを嫌がる雲助が妙に新鮮だったり。ふ、ふつーはそうだよね(汗)。


■最後に
読者が「なんとか間に合ってほしい」と待ちわびていた救援隊は、姉弟の死の直後に到着する。それが読者をよりいっそう、やりきれない思いにさせる。「今頃何をしに来たのだ」とばかりの千津の冷酷な眼差しは、そのまま読者の感情を代弁している。そしてその後、再び50年後の千津の場面に戻るのだ。
姉弟をなぶり殺した男たちは、この後、救援隊に復讐されたであろうということが、その千津の場面でさりげなく暗示されている。千津が、切断された浪路と菊之助の性器を保存していたからだ。本来ならばこの二つの性器は、三五郎が所持しているはずだから。
だが小説は、悪者たちが復讐されるシーンなど一切書かないし、後日談として「その後、悪者たちは退治されました」などということも書かない。その後のことは読者の推量にゆだねている。単純な勧善懲悪ものにせず、ただ、美しい姉弟の徹底的な悲劇を描くのみ。その潔さが胸を打つ。

 

この小説は1980年に東京三世社から出版されたが、1997年に太田出版から再出版される際、大幅に書き直されたらしい。作者が残虐と判断した場面を修正したそうで、だから今、出版されているバージョンは「毒気を抜かれたもの」だとか。そう聞くと、書き直される前のオリジナルもいつか読んでみたくなってくる。

最後に、『鬼ゆり峠』で検索すると、ひっかかってくるBLコミック『美剣士』について少し。『鬼ゆり峠』をベースにしたBLだそうで、あの小説をいったいどうやったらBLにできるのか、逆に興味をひかれて、読んでみた。

……うーん。作者はあとがきで「『鬼ゆり峠』を下敷きにした」と書いているけど、「どこが?」という感じ。登場人物の名前だけ借りた、『鬼ゆり峠』とは全くの別物で、こんなもんは勝手にオリジナルでやってくれと言いたくなる。菊之助という名の若侍が囚われて陵辱されれば、もうそれで「鬼ゆり峠がベース」ということになるのだろうか。
その陵辱も、「にっくき父の仇に陵辱される屈辱」がキモだった原作と違い、何の関係もない雲助たちからの陵辱だから、屈辱感ゼロ。「体だけでなく心も陵辱し尽くす」という鬼六作品のスピリットがきれいさっぱり抜け落ちてるから、読んでてちーっともドキドキしない。よくこんなんで「原作 団鬼六」と本の著者欄に記載できるわ(呆)。
「原作を読むと、菊之助の相手役は重四郎かなと」感じたと、作者はあとがきに書いているが、これも謎。いったい原作のどこをどう読めばそう感じるのか……腐女子フィルターって凄いですね。
もし仮に私が『鬼ゆり峠』をBL化するとしたら、浪路を男にして、美形兄弟の受難物語にするかな。そしたら、原作のストーリーそのままでBLになるし。それか、重四郎と定次郎をカップルにして、悪役視点の話にするのも面白いかも。って、いったい何の話だ。

仮に「鬼ゆり峠がベース」という見方をなくして、全くのオリジナルとして読んだとしても、絵も雑だしネームも稚拙だし、がっかりな作品だった。

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