何年たっても、まだ狂ってる。
Still Crazy After All These Years (Paul Simon)
<< December 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 鬼ゆり峠 | main | 『忍者武芸帳 影丸伝』白土三平 >>
団鬼六とキリスト教

『鬼ゆり峠』を再読していたら「おや」と思った箇所があったので、本のレビューとは別の記事として書いてみる。

団鬼六の作品に時々出てくる、キリスト教関連の描写について。

 

団鬼六はミッション系の名門である、関西学院大学の出身だ。なので大学では、キリスト教の授業を受け、聖書を読み、学内のチャペルでの礼拝に出席するなどして、それなりにキリスト教の知識と教養を身につけたはず。そしてそれを後の作品に活かしていることが、幾つかの作品から読み取れる。

先に書いた『鬼ゆり峠』では、処刑されるため松林に引き立てられて行く菊之助の姿を、「屠所へ引き立てられる小羊のよう」と表現している。これは明らかに、菊之助を、十字架につけられるため引き立てられていくイエス・キリストに見立てていると分かる。「屠られるいけにえの小羊=キリスト」は、少しでもキリスト教に触れた人なら誰でもすぐにピンとくるキーワードだ。

私小説『美少年』では、もっとはっきりと「キリスト」という言葉が出てくる。「私」と別れ、全ての望みを失った菊雄が自棄になり、自ら淫獣たちに身を投げ出す姿が「少年キリスト像」のように見えたと、「私」に描写させているのだ。
また、私は読んだことがないのだが、これも代表作の一つである『肉の顔役』では、被虐対象となる美貌の母と娘は「敬虔なクリスチャン」という設定だとか。そして実際に聖書の言葉が、物語中で効果的に使われているそうだ。同じく『花と蛇』にも、敬虔なクリスチャンである女性が二人、登場するとか。

私は団鬼六のほんの一部の作品しか知らないが、それでもざっと思いつくだけでこれだけキリスト教と関わる描写があるのだから、探せば、恐らく他にももっとあるだろう。
上に挙げた例のうち、『肉の顔役』『花と蛇』での、「ヒロインが敬虔なクリスチャン」という設定はわりと分かりやすい。恐らく「敬虔なクリスチャン女性=聖母マリアのような清らかな女性」というイメージが彼にあり、そうした女性を陵辱することで、より読者の興奮を高めようという狙いだろう。他の官能小説やポルノ映画などでもよく見かける、修道院のシスター陵辱と同じ構図である。

『鬼ゆり峠』『美少年』の場合はどうか。この二作品では、悪漢達に陵辱され、殺される少年をキリストに見立てている。(菊雄は直接殺される訳ではないが、陵辱事件の二年後に自殺しているので、実質殺されたようなものだろう)
キリストは人類の罪を救うため、自ら犠牲になって十字架につけられた人物だ。『鬼ゆり峠』では物語の前半、菊之助が浪路を守るため、自ら犠牲になる形で悪漢達に捕らえられるシーンがある。そしてその結果殺されるのだが、それもふまえて団鬼六は処刑されようとする彼を「小羊」と表現したのだろうか。

もう一方の『美少年』には、菊雄が自己犠牲精神を発揮するようなシーンはない。だが彼は、自分を辱めている「敵」に対しても気遣いを示すのだ。このあたりは、十字架上で「父よ。彼らをお許し下さい」と神に祈ったキリストに、似ている部分がなくもない。(ちょっと自信ない)

何より特徴的なのは、菊之助にしろ菊雄にしろ、自分を責める醜いものたちに嘲られても、決して嘲り返さない、気高い存在として描かれている事だ。それを団鬼六は、「のしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず(ペテロ第一 2章23節)」、毅然とした態度で十字架刑に処せられたキリストに見立てているのではないだろうか。
醜いものたちにどんなに肉体は汚されようとも、決して汚されることのない気高い無垢な魂ーー。そんな少年を団鬼六は「小羊」「キリスト像」と表現した。そんな気がする。

ちなみにこの二作品、どちらの少年の名にも「菊」が使われているが、これは別に深い意味はないだろう。団鬼六は被虐対象となる主人公の名に「菊」の字を使うのが好きらしく、他の作品にも「菊江」や「菊代」という名のヒロインが登場する。『新 夕顔夫人』にも、再び「菊雄」という名の美少年が登場するし、あまりネーミングについてのこだわりはないっぽい。

web拍手 by FC2
COMMENT









Trackback URL
http://still-crazy.jugem.jp/trackback/342
TRACKBACK
TweetsWind