何年たっても、まだ狂ってる。
Still Crazy After All These Years (Paul Simon)
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日本語の洪水、九ふん。
■一日め〈12月25日〉

「甘記華茄刀削麺」で遅いお昼ご飯を食べた後は、九份へ。
九份といったら台湾屈指の観光地だし、とりあえず行っとこう、という軽い気持ちの九份観光。できれば事前に、九份を舞台にした映画『非情城市』を見ておきたかったけれど、ツタヤにもゲオにもなかった。実店舗だけでなく、ネットレンタルのツタヤディスカスにもない。ヴェネチア映画祭グランプリの有名な映画やのに、なんでやねん(怒)。日本のたいていのガイドブックにも「九份は映画『非情城市』の世界」とか書かれているのに、その映画を日本で見る機会がほぼないってどういうことやねん。
ちなみに九份といったらこれも有名な映画『千と千尋の神隠し』は、興味がないので見ていない。

台北市内から九份には、バスで行くのが安上がりだと事前にネットで調べていた。そこでそのルート通りに、忠孝復興駅の2番出口を出る。するとそこはSOGOの中。そのままSOGOを出て前の横断歩道を渡ると九份行きのバス停がある。この時は、バス停の後ろにすでに長い行列ができていたので、すぐ分かった。

このバス停から、1062番の「金瓜石」行きのバスに乗車。すると乗り換えなしで九份に行ける。ネットには片道115元(460円)で行けると書いてあったけど、この日はさらに値下がりしていて、片道100元(約400円)だった。やすっ。

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バスに乗ってお金を払うと、バスの写真がプリントされたプラスチックのカードを渡された。その下に持っているのは悠遊卡(EasyCard)。桃園國際空港で買ったのだけれど、その際にカウンターの係員に念を押されたように、ここで買うとカード返却時に、デポジットの100元が返ってこない。私は空港から台北市内行きのバスに悠遊卡を使おうと思って空港で買ったが、そのバスでは悠遊卡は使えなかったので、空港で買った意味ナシ。台北市内のMRT駅で買った方が、カード返却時にデポジットの100元が返却されてトクなので、次からは台北市内のMRT駅で買おうと思う。
まあ次に台湾に行く時は、桃園國際空港と台北市内を結ぶMRTの路線が完成している可能性が大。なので空港のMRT駅で悠遊卡が買えるはず。

バスに乗って約1時間半。他の大勢の乗客と一緒に「九份老街」のバス停で降りる。台北市内では小降りだった雨が、本降りになっていた。
九份は予想以上にすごい人。ショップが軒を連ねる基山街を、人ごみをかきわけるようにして芋圓の有名店「阿柑姨芋圓」に向かう。一応飲食関係の執筆業なので、「おいしい」といわれている店にはとりあえず行こうと思っていた。九份だと「阿柑姨芋圓」だ。
幸い、それほど並ぶこともなく店内に入れた。一人なので、窓に面した展望席にもスッと座れた。二組のカップルの間に席が一個、ぽつんと空いていたのだ。こういうときに一人旅の身軽さを感じる。
雨なので展望はイマイチだったけれど、つくりたてという芋団子はホクホクで、その素朴な甘みが疲れた体を癒してくれた。
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この芋団子さえ食べられれば、後は特に目的がない九份。傘の花が咲くなか、とりあえず夕方まで街をうろうろする。往年の「アジアのゴールドタウン」はすっかり観光地化していて、ノスタルジックな風情も何も感じられない。日本からの団体ツアー客も多く、日本のどの観光地より日本人が多いんじゃないかと思うほど、日本人でごった返していた。私もツアーの添乗員にツアー客と間違えられて、声をかけられてバスに乗せられそうになった(笑)。

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「阿柑姨芋圓」の向かいにあった「九份秘密基地」と、放し飼いらしき犬。

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観光地によくある、顔出し看板の集合スペースもあった。

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家族連れもよく見かけた。子どもの「もう帰ろうよ〜」と言う日本語が聞こえ、声の方を見ると、その親がイライラしながらその子を叱っていた。そりゃ、小さい子にはつまらないだろう。無理に連れて来る親が悪い。
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でも、ちょっとメーンルートを離れるととたんに人がいなくなり、静かに「坂の町」の風景を楽しむことができた。
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「九份は帰りのバスが激混み」と聞いていたので、夕景を楽しむのもそこそこに、17時頃バス停に行く。台北行きのバスが停まるバス停は、思ったより待ってる人が少ない。と思ったら、後からどんどん人が増えて来た。
ここではバスに乗り込む順番などなく、とにかく早いもの勝ちだと聞いていた。幸い、しばらくして来たバスは私の目の前に止まったので、そのまますんなりバス に乗れた。が、後ろの方では人ごみをかきわけ、我先に乗り込もうとする人たちのバトルが繰り広げられていた。家族連れは特に大変だったようで、こういう時にもまた、一人旅の身軽さを感じる。
バスの車中では、台北に着くまでの一時間半、ずっと兄弟らしき日本人の子どもが3人、大声ではしゃいだり歌ったりして 騒々しかった。親は全く注意しないし。九份でもひっきりなしに周囲から日本語が聞こえてきたし、台湾に来て一日目で、早くも日本人の多さに……というか、 聞こえて来る日本語の多さにげんなりする。日本人が多いのは、そういう私も日本人だから別にいいんだけど。周囲から聞こえてくるのが日本語ばかりだと、「異国にいる」という感じがしない。

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そうこうしているうちに台北に到着。駅に行くためSOGOの前を通ると、クリスマスツリーが目に飛び込んで来た。すっかり忘れていたけど、そういや今日はクリスマス。これからディナーを食べに行かなくては。

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これが今夜のディナー。ホテル近くの大衆食堂「八珍小吃」で食べた「快餐」という定食で、ご飯、スープに、四品のおかずがつく。見た目茶色ばっかりで地味だ けれど、いかにも家庭料理といったほっこりする味付けで、しみじみおいしい。「台湾料理の味付けは日本人の口に合う」とはこういうことかと納得した。
一人用の定食というのがまた、一人客にはありがたい。店に入ったのは閉店間際の21時前だったけれど、快く注文を受けてくれたり、「お客が自分でご飯とスー プをよそう」という店のルールを私が知らないと気づくと、ご飯とスープをよそって持って来てくれたりと、店員さんの対応もあたたかかった。

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路地裏の大衆食堂。次は複数で来て、いろんな料理を頼んでみたい。
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「台湾って、つまんなさそう…」
普通、旅行前にその国のガイドブックなどを読んで準備している期間って、どんどん旅行への期待が高まってモチベーションが上がるものだと思うのだけれど。今回の台湾旅行では初めて、「旅行準備中にモチベが下がる」という経験をした。
だって本を読むと「親日国」とか「日本語が通じる率が高い」とか「料理がおいしくて味付けは日本人の口に合う」とか、日本人に都合のいいことばかり書いてあって、本当に旅行しやすそうな国で、かえって「なんかつまんなさそう……」と。
別に旅行上級者を気取るわけではないけれど、あまりにも居心地のいい環境だと「異国を旅してる」感じがしなくて、つまらなく感じてしまう。たとえば去年、経験したタイとカンボジアの国境のように、暑い中長時間並ばなくてはならないような、旅行者にはちょっと過酷な環境の方が「異国を旅してる」感じがしてワクワクする。……と、その国境で出会って友達になった鏡子さんにも旅行前にメールで書いた。もちろん命の危険を感じるような「危険な環境」は嫌だけれど、「過酷な環境」は嫌じゃない。体力的にちょっとハードだったり、どうにも言葉が通じなくて困ったり、どうしようもなく孤独を感じたりするような経験があった方が、旅行としては面白い。

と、旅行前は思っていた。あさはかだったと、旅行を終えた今になって思っている。旅行の醍醐味って、そうした表面的な「非日常性」ではなくて、もっと内面的なものーー例えば普段の生活では会えないような人と巡り会えたりとか、本で読んだだけの歴史をこの目で実感したりとか、そういうことにあるのだと、台湾を旅行して気づいた。9カ国目にしてようやく旅行の本質に気づかされた、今回の旅行だった。

■初めての台湾、初めてのLCC
そもそも台湾に行こうと思ったきっかけは、半年前の中国旅行。北京の故宫博物院に行って、でも歴代皇帝の宝物はここじゃなくて台湾にあると知り、次は台湾の故宮に行こうと決めた。
それに台湾だったら、格安のLCCで行ける!せっかく近くの関空からピーチが飛んでるのに、これまでわりと遠い国への旅行が多かったから、LCCは利用したことがなかった。今回、ピーチで購入したフライトは大阪(関空)ー台北(桃園)が往復で26,330円。やすーい。

■一日め〈12月25日〉
今回は本当に、直前まで仕事をしていた。それでも終わらなくて、結局旅行中も、夜はホテルで仕事をしなくてはならないはめに。まあ一人旅だし、夜はホテルでゆったり過ごす派だから別にいいんだけれど。気分的に、旅行中も仕事を引っ張るというのが、100%旅行を楽しめない感じがしてちょっと残念。
でもこれは、10泊11日という長期旅行の計画を立てた私が悪い。そりゃ仕事終わらんわ。フツーは12月28日くらいまで仕事するもんだし。それを私は早々に24日で切り上げて、25日の朝から旅行に出発。

朝、7時50分発の飛行機で台湾へ。LCCだともっと早い便もあって、これはまだ遅い方だと思うけれど、LCC初搭乗の私にとっては今まででもっとも早朝のフライトかも。
たぶん、そのせいだろう。朝、まだ暗いうちから起きて慌ただしく家を出た私は、「旅行の必需品」として買っておいたガイド本『歩く台北』を家に忘れてきたことに、関空行きの電車を待つ駅のホームで気づいた。だが今から家に取りに帰る時間はもうない。
関空内の本屋で売られているかも。そのことに望みをつないで電車に乗り、関空に向かう。のっけから大チョンボで、先が思いやられる…。

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関空は毎年恒例のウィンターイルミネーションで華やか。だがイルミネーションを楽しむ余裕もなく急いで第1ターミナルに行き、インフォメーションのお姉さんに書店の位置を尋ねたが(自分で探す時間がなかったので)、あいにくこの時間はまだ書店はオープンしていないとのこと。
仕方なく、ピーチ航空が発着する第2ターミナルに向かう。だがさすがLCCが使うターミナルだけあって、ここの書店は開いていた!そして『歩く台北』もあった!
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さっそく本を購入。そういうわけで帰国後、フライト前に空港で買ったものと、旅行の数日前に買ったもの、二冊の『歩く台北2015-21016』が私の手元に残ることに。
すっかりくたびれてしまっている右の本が、旅行で使った方だ。
同じ本が二冊……これは今回使わなかった方の本を使うために、また台北に行けということやね?

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うっかり忘れてきた本も買えて、安心して搭乗する。やった、大好きなタラップ搭乗。もうそれだけでテンション上がる。小型飛行機はジャンボ機に比べて揺れやすいのが難点だけど、このタラップ搭乗があるから大好き。

約3時間のフライトはあっという間。初めて訪れた台湾、空はあいにくの雨模様。機内の窓から見た桃園国際空港は、思ったより小さな、こじんまりした空港だった。
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空港からはバスに乗って台北市内に向かう。私は台北では松江南京駅近くのホテルに7連泊するので、松江南京駅を通る路線のバスを『歩く台北』で調べ、そのバスに乗る。やっぱり『歩く台北』が買えて良かった〜。
バスが桃園から台北市内に入っても、まだ細かい雨が降り続いていた。空港から約40分、松江南京駅に着いたのでバスから降りる。そのままホテルに向かうつもりが、反対方向へと歩いていたらしく、慌ててまた一駅ぶんを歩いて戻る。方向音痴のくせに、自信満々にどんどん歩いて行ってしまい、道に迷う悪癖がまったく直らない。これだから、友達と一緒の旅行が危なっかしくてできないのだ。自分一人なら道に迷っても自分がしんどいだけだけど、友達連れだと、「自信満々に歩いて行くから道を知ってると思ってたのに、なんで迷うの?」と友達を不機嫌にさせてしまうこと間違いなし。

雨の中、ようやくたどりついたホテルはエリンホテル (伊倫商務会館)。時計は13時過ぎだったけど、このホテルのチェックインの時間は15時。そこでチェックインせずに、ロビーにスーツケースだけ預けてすぐまた外へ。
この日はお昼を食べた後、九份へ行く予定を立てていた。いつも観光客で混雑しているという九份だけど、土日はさらに混雑すると聞いていたので、なら金曜日の今日、行っておこうと考えたのだ。

お昼をどこで食べるかは決めていなかったけど、ホテル周辺をうろうろしていたら、行列ができている店を発見。見ると、看板にはトマトのイラストと「甘記華茄刀削麺」の文字。ここがあの人気のトマト牛肉麺のお店か!早速私も行列に並んだ。
店先では店員のおじさんが刃物でうどん玉を削り落としていて麺を作っていた。なるほどだから「刀削麺」なのか。
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台湾に来て初めて食べたこの華茄(トマト)牛肉麺、さっぱりとした酸味のトマトスープに、もちもちと歯ごたえのある麺がからんで、行列も納得のおいしさだった。ごろんと入った大ぶりの牛肉も柔らかく、良質の肉を使っているという感じ。値段は140元(約560円)。
初めて訪れた国で、初めて食べた料理がおいしいと、がぜんその国が好印象になる。華茄牛肉麺が期待以上に私の口に合ったことで、来る前はあんまりモチベが上がらなかった台湾旅行ががぜん楽しみになってきたのだから、本当に食い意地が張っているというか、胃袋でモノを考えるというか(笑)。
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左端のお店が「甘記華茄刀削麺」。14時過ぎなので、このときはすでに行列はなくなっていた。
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中国人って……
ドイツやイギリスを旅行中、すれ違いざまにイギリス人から、何度か嫌悪の表情で「チャイニーズ!」と罵られた。「イギリス人」というのがポイントである。私がこれまで行った欧米の国はイギリス、ロシア、ドイツ、アメリカ、ポーランドなどだが、すれ違いざまに「チャイニーズ!」と罵ってきたのはイギリス人だけだ。他の国の白人たちも腹の中では罵倒しているかもしれないが、口には出さなかった。もちろんイギリス人にも親切な人はたくさんいた。だが一部のイギリス人(主に若者)はガラが悪く、人種差別意識が強いというのが私の印象だ。ちなみになぜドイツを旅行中に「チャイニーズ!」と罵ってきたのがイギリス人と分かったかといえば、彼らがサッカーのイングランド代表のユニフォームを着ていたからだ。単純すぎる決めつけかもしれないが、訪れたのがワールドカップ中だったので、たぶんあれはイギリス人だと思っている。

だがこの経験には別の側面もある。一部のイギリス人がガラが悪いということと、もう一つ。アジア系の人を見れば「チャイニーズ」と勘違いするほど、中国人旅行客が多いということ。そして見かけたら思わず罵倒したくなるほどに、中国人旅行客の評判が良くないということだ。
私はそうして「チャイニーズ!」と罵られるたびに、「私は中国人ちゃうわ!」と言い返したかったが、言い返そうと振り向いた時にはもう彼らは歩き去っている。まあ、ああいうガラの悪い輩とはかかわらないのが一番なので、下手に言い返さなくて良かったかもしれないけれど。
だが今年の5月、初めて旅行で中国に行ってからは、旅先でイギリス人から「チャイニーズ!」と罵られた時の反応がこれまでとは変わるだろうと感じている。むっとすることには変わりがないが、「私は中国人ちゃうわ!」ではなく、「中国人を差別するな!」と怒るだろう。つまり私は中国旅行で、中国人が好きになってしまったのだ。

確かに以前から噂に聞いていた通り、中国人は何かと騒がしくてマナーが悪かった。外を歩いていると頻繁に「ガーッ、ペッ」という音に出くわす。もちろん日本でも、主に中年以降の男性がタンを吐く音に出くわすことがあるけれど、比較的まれだ。だが中国では本当に頻繁に、この「ガーッ、ペッ」が聞こえてくる。これをやるのは日本と同じく中年以降の男性が多いのだけれど、中国では中年女性も人前でおおっぴらに「ガーッ、ペッ」とやるのが日本との違いだ。だがさすがに若い女性は「ガーッ、ペッ」はやらない。つまり中国人の間でも、一応「人前でガーッ、ペッとやるのはみっともない」という意識はあるらしい。そういう意識はちゃんとあるのに、にもかかわらず、年を取れば男も女も「ガーッ、ペッ」とやるのが図々しいのである(笑)。

そういえば中国映画のメイキングビデオを見ていても、俳優がマイクで話しているその声にかぶさるように、「ガーッ、ペッ」という音が聞こえてくる。で、その音に俳優の声がかき消されたりして。ちょっとちょっと、今、俳優のインタビューを撮影中やねんで? 
これだと中国の映画館でも、きっとあちこちから「ガーッ、ペッ」が聞こえてきそう。「今はシリアスなシーンだから我慢しよう」とかいう意識がなさそう。

だが北京の劇場で京劇を鑑賞していた時は、「ガーッ、ペッ」は聞こえてこなかった。普通の声の大きさで喋るおっちゃんはいたけれど。周りがシーンとしているから、そのおっちゃんの声がよく聞こえること聞こえること。でも周りは誰も気にしていなかったから、きっと中国では普通のことなのだろう。

この京劇の時にも感じたけれど、中国人は基本的に声が大きい。そしてあんまり周りに気づかいしない。すぐ近くに人がいることなんかおかまいなしに、人の耳元で平気で大声を出す。故宮などの、大勢の人で混み合った観光地では特にやかましい。
だがそういったマナーの悪さややかましさなんかどうでもよくなるほどに、中国人は見ず知らずの旅行客に、おせっかいなほどにやさしかった。日本語で書かれた中国語の会話帳を指さして道を尋ねたりしたから、私が日本人ということはすぐ相手には分かったはず。それでもやさしさは変わらなかったし、特に反日感情などは感じなかった。
たとえば、私は市営パスで移動することが多かったのだが、バス停で待っていると、地方から観光に来たっぽい中国人から、バスの行き先について何度かたずねられた。そのたびに私は「すみません、私は日本人です」と拙い中国語で答えたのだが、それで嫌な顔をされることは一度もなかった。また、京劇を見る前の待ち時間、劇場前の庭で出会った若い女性は、私が日本人だと分かると、スマホの翻訳機能を使って、懸命に日本語で会話しようとしてくれた。彼女との会話から、私はこの日の京劇の主演女優が有名な人だと知ることができた。

また、郊外にある798芸術区にバスで向かうとき。芸術区行きのバスが出るバスターミナルが駅からちょっと離れているので、私はうろうろしながら、とおりすがりの初老男性に場所をたずねた。その男性はみぶりてぶりで四角い箱を作って、懸命に私に何かを伝えようとしてくれた。その時は分からなかったが、行ってみて分かった。バスターミナルは大きなビルの中にあり、道からはバスが見えないため、あそこにターミナルがあると分かりにくいのだ。
売店でおみやげを物色していたら、若い店員から「コンニチハ」と話しかけられたこともあった。帰国後、中国語のサイトで中国人と交流して分かったことだが、日本語を勉強している人もわりと多いらしい。
親日とまではいかないかもしれないけれど、中国人は見知らぬ旅行客にやさしい。これは私が中国を旅行して、もっとも印象に残ったことの一つだ。

他にも中国では、これまで他の国では味わえなかった驚きがいろいろあった。
その一つがトイレ。故宮などの有名観光地のトイレは、さすがに外国人客向けに整備されていた。といっても決してきれいではなく、公園の公衆トイレレベルだが。それでも中国のトイレ事情において、「ドアがある」というのは充分整備されていると言えるのだ。
だが外国人客があまり来ないような場所、例えば私が798芸術区に行く際に利用したバスターミナルが入っているビルなどは、トイレにドアがなかった。マクドナルドなども入っている近代的な大型ショッピングビルなのに、そのマクドナルドの隣のトイレにドアがないのである。トイレスペースに入って行くと、きちんと化粧したおしゃれな若い女性たちが和式トイレにしゃがんで用を足している姿が丸見えで、思わず入口で固まってしまった。とっさにそこから立ち去ろうかとも思ったが、私もトイレに行きたくて差し迫った状況だったので、とりあえず周りを見回した。するとたまたま、一つだけドアがついているトイレを見つけたので、そこに入った。鼻がもげるかと思うほど臭くて汚かったが、この際そんなことは言ってられない。それは贅沢というものだ。
それにしてもなぜ、一つだけドアがあるトイレが残っていたのだろう。たぶん元々、全てのトイレにドアがあったのだが、老朽化してドアが外れ、だがドアがなくても誰も不都合を感じないので、そのまま放置されているのだろう。

排泄行為に対してあまり羞恥心がないというのは、トイレ以外の事例でも感じた。
天安門広場などの観光地でも見かけたが、小さい男の子がはいているズボンの股に、あらかじめ穴があいているのだ。わざわざズボンやパンツを脱がなくても、そのまましゃがんで用を足せるように。
とはいえ、さすがに天安門広場では、そのまましゃがんで用を足している男の子はいなかった。だが街中のちょっと路地裏に行くと、母親が穴あきズボンをはいた男の子に、道ばたで用を足させているのを見かけた。
そういう光景を見るにつけ、中国は経済的にめざましい発展を続けているけれど、住んでいる人間はそう簡単には変わらない。そんな感想を抱いた。
だから中国は面白い。時期によっては空気が悪くてずっとマスク着用だったりといろいろあるけれど、おせっかいなほど面倒見のいい人たちに会いに、またぜひ訪れたいと思う。


中国人観光客が多い街、北京。故宮を見下ろせる山の展望台で、仲睦まじい中国人ファミリーを見かけた。
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台湾人に、いきなり日本語で話しかける日本人
年末年始に初めて台湾を旅行した。台北+花蓮で10泊11日。台北は日本人旅行客に人気と聞いてはいたけれど、予想以上に、どこも日本人だらけだった。自分も同じ日本人のくせに、自分のことは棚上げして書く。だって私は一人旅だから話す相手もいないし、ぶつぶつ独り言を言う癖もない。つまり日本語を話さずに観光しているから、ぱっと見では日本人とは分からないはず(笑)。まあ服装の地味な色合いなどから、分かる人には一目で日本人と分かるんだろうけれど。台湾人や中国人のように、ショッキングビンクのダウンとか着ないからねー日本人は。

小籠包で有名な「鼎泰豊」なんか、店内の客は全て日本人、外で行列を作って待ってる客も全て日本人という徹底ぶり。子ども連れも多くて、内装もカジュアルモダンで小ぎれいだから、食べながら、ここは日本のファミレスかと錯覚しそうになった。
ちなみに私が店に行ったのは土曜の、朝9時前。開店してすぐだったのかまだ空いていて、4人掛けのテーブルを一人で占領できたけれど、後から来た一人客(男性)と、カップル客は10人掛けのテーブルに相席させられていて、どちらもきまずそうで気の毒だった。特に一人客のほう。台湾って日本の飲食店みたいに、「相席になってもいいですか?」とか店員がいちいち確認してくれないもんね。
さらに後から来た別のカップル客も、そのテーブルに座らされていた。二組のカップルが一つのテーブルに相席……これもまた気まずい。
このままだと私のテーブルも相席になるのでは?と気が気でなくなった私は、さっさと食事をすませて店を出た。まあ小籠包はおいしかったけれど。

とまあ、とにかく日本人が多かった台北は。有名な観光地やショップはもちろん、ホテルでも駅でも電車内でも、たいていの場所で日本語が聞こえてきた。体感的には、日本よりも日本人が多いんじゃないかと感じた。もちろんそんなわけはないのだが、そう感じてしまうのは、私が日本の田舎から、日本人に人気の観光地・台北に行ったからだろう。これが東京とかからの移動だったら、そんなことは感じないのだろうけれど。
つまり人口の少ない日本の田舎にいる時よりも、周りから頻繁に日本語が聞こえてくるのだ台北は。だから日本にいる時より日本人が多く感じる。ほとんどが複数で旅行しているし、テンションも高めだから、四方八方からひっきりなしにはしゃいだ日本語の話し声が聞こえてくる。台北で日本語が聞こえなかった場所は、観光地なら林本源園邸くらい。「台北は日本人多すぎ」とちょっとげんなりしている人は、行ってみては。もちろん観光スポットとしてもおすすめだ。

そういう訳であまりにも日本人が多すぎていささか異国情緒には欠けるものの、そういう私も日本人なのでお互いさまだ。自分では「私は喋らず黙々と旅行してるから現地人に見える!」と勝手に思っているだけで、ラシットのトートを持ってたから、分かる人にはすぐ日本人と分かるだろうし。
だから日本人が多いのは別にいい。私が気になったのはそれよりも、お店などで、店員の台湾人にいきなり日本語で話しかける日本人が多いことだ。あんな光景、これまで旅行して来た他の国ではまず見なかった。同じ中国語が公用語の北京でだって、店員にいきなり日本語で話しかける日本人はいなかった。というより、それ以前に北京では日本人をまず見なかった(笑)。北京で自分と同じ日本人旅行客に出会ったのは、天壇でただ一度だけだ。

確かに台湾、それも台北だと、日本語が話せる店員も多いから、つい日本語で会話したくなる気持ちも分かる。でもそれは、向こうから日本語で話しかけてきた場合の返答に限るのでは? 台湾人に、いきなり日本語で話しかけるのはちょっと図々しいのでは……と違和感を持った。
そもそも、日本語を話せる台湾人が多いのは過去に日本に植民地として統治されて、強制的に日本語を学ばされた歴史があるからだ。今でこそ「日本好き」な人が自ら進んで日本語を学ぶことも多いようだし、街でも英語教室と並んで「日語教室」の看板をよく見かける。だがベースはやはり、過去の植民地時代(台湾では『日治時期』というらしい)の名残りだろう。
その歴史を知っていながら、いきなり日本語で話しかけるか? もしかして、今でも台湾は日本の植民地だと思ってる? いやさすがにそれはないだろうけど、だが「台湾では日本語が通じて当然」というような、日本人の奢り、図々しさを感じて、私はその光景に出くわすたびに不快になった。

日本のTVや雑誌、ガイドブックなどのメディアが、やたらと「台湾は親日」と喧伝するのもまた、その一因かもしれない。「台湾人はやさしい」ともよく聞く。確かに私も旅行中、何度も見知らぬ台湾人に「日本語で」教えてもらったりして、助けられた。だが別に北京でも、困った時には何度となく見知らぬ中国人に助けてもらったし、「中国人ってやさしい」と感じた。まあ、耳元でいきなり大声を出されたりして、いささかやかましくはあるけれど(笑)。
だから特に台湾人がやさしいとは感じなかったけれど、やはり相手が日本語を話せる、というのは安心するし、親近感が湧く。北京では店員に「コンニチハ」と話しかけられて、でもそこから先は日本語で会話が続くなんてことはなかったけれど、台北では普通に店員とその後も日本語で会話が続くのがすごい。
でもしつこいけれど、そうやって日本語で会話をするのも、まずは「向こうが日本語で話しかけてきてくれてから」始めるのが礼儀だと思う。相手の店員も商売だから、いきなり日本語で話しかけられても、にこやかに日本語で応対してはくれるけれども。内心はどうなんだろう。私は日本のメディアがやたらと「台湾は親日」と喧伝することにも前からずっと違和感があるんだけれど、まあそれはここでは置いておく。ここで言いたいのは、「台湾は親日で、日本語を話せる人も多い」と喧伝されてるからといって、いきなり日本語で話しかけるのは図々しいのでは? ということ。日本語は基本、日本人しか話さない言語なのだから。

という話を、現地で知り合った台湾在住の日本人に話したら共感してもらえた。私に合わせてくれただけかもしれないけど、謝謝。
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『KANO 1931 海の向こうの甲子園』
『KANO 1931 海の向こうの甲子園』

うーん。見る前の期待が大きすぎたのか。私には合わなかった。
見る者を泣かそう、泣かそうとしすぎ。実話を元に脚色したそうだけど、その「脚色」の部分がベタ過ぎ。くさ過ぎ。
甲子園の決勝戦の試合中に、投手が相手チームの打者に「痛いんだろう、なぜあきらめない」とか言うか? いくら映画でもリアリティなさすぎて萎える。時代遅れのスポ根漫画を見せられてるよう。アナウンサーが試合中の選手たちの仕草や心情を全て言葉で説明するのも、古くさい野球漫画のようでダサい。もっと映画的な見せ方はできないのか。

無名のチームが大会に旋風を巻き起こしたものの惜しくも決勝で敗れる、というのはチャンピオンズリーグ2001-2002のレバークーゼンのようで、とっても私好みのシチュエーションなのだけれど。
泣かそう、泣かそう、とする演出があざとく感じて、逆にちっとも涙腺がゆるまなかった。
こういうのってもっと淡々とした演出の方が、私はぐっと胸に迫ってくる。

球児たちもみんな心がきれいないい子すぎてリアリティがない。異なる3民族が同じチームなんだから、表面では仲良くしてても、内心では自分と違う民族を見下したり、反発したりとか、いろいろ葛藤がありそうだけど。そういう葛藤を乗り越えてチームとして団結する、というドラマがない。脚色するんならそういう部分を脚色した方が私は共感できたし、漢人・日本人・原住民の混合チームというKANOならではの個性がより伝わったのでは。
それにこの年頃の男子ならもっと異性への性欲がさかんで、ばんばん下ネタを連発しそうなのに、なんにもないし。みんなきれいすぎて泥臭さがゼロ。とにかく、男たちのドラマにしてはきれいすぎるのが私には合わなかった。

こういうさわやかな青春映画を見て素直に感動できない私は、きっとひねくれている。
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『セデック・バレ』
 『セデック・バレ』

「文明が俺たちに屈服を強いるなら、俺たちは野蛮の誇りを見せてやる」

このモーナ・ルダオの言葉でも分かるように、この映画は単純な「抗日もの」ではない。よくある抗日ものなら、モーナは「日本が俺たちに屈服を強いるなら」と言っているだろう。

そう、彼らの真の敵は日本ではなく文明。それも平和に共存しようとする文明ではなく、彼らを酷使して屈服させようとする文明だ。その根底には、原住民を見下し、「野蛮人に文明を与えてやる」というおごった考えがある。だからこそモーナは反発したのだろう。

日本の司令官である鎌田は、敵に毒ガスを使うと決めた後、「野蛮人に文明を与えてやったのに、俺たちを野蛮にしやがった」と漏らす。この台詞は、この映画の日本人と原住民の対立の構図を端的に表現していると思う。

「いくら酷使されているといっても、祖先の掟を理由に、無抵抗の女性や子どもまで殺すのは惨い」という見方もあるだろう。また、原住民の女性たちが食料を浪費しないために集団自殺し、自分の子どもにまで手をかけるシーンもショッキングだ。だが現代に生きる私たちの価値観で、彼らを批判することはできない。

霧社事件についてはこの映画で初めて知った。その後事件について調べたが、映画は実際の事件を脚色している部分も多いらしい。
例えば小島源治は、映画では妻子を殺されたことになっているが、実際は妻子は生き残り、彼の家族は誰も死ななかったそうだ。
それを映画では「殺された」ことにしたのは、事件前は原住民に礼儀正しく接するなど友好的だった彼が、事件後「復讐の鬼」と化したことの、理由付けがほしかったからか。それとも、人間の弱さを描きたかったからだろうか。
また、現代の価値観からは「裏切者」に見えるタイモ・ワリス。映画では少年時代からモーナ・ルダオと個人的な因縁があったことを描いたり、また小島に剣を向けて「俺たちが闘うのは義のためだ」と言わせるシーンを作ることで、「彼には彼の事情があったし、彼なりの正義感の元で闘った」と擁護しているように感じる。最後、モーナ・ルダオを先頭に戦士たちが虹の橋を渡るシーンでは、モーナのすぐ後ろにタイモ・ワリスも続いている。彼もまた「真のセデック」として虹の橋を渡ったのだ。映画はそう描いている。
それは感動的なシーンではあったが、正直、「虹の橋を歩く戦士たち」を視覚化するのはちょっとやりすぎのような気がしないでもない。特撮技術が稚拙なせいで、なおさら陳腐で滑稽に見える。実話を元にした骨太な歴史映画が、いきなり最後、「西遊記」に変貌したかのよう。だが最後にあのシーンがないとあまりにも救いがないと、制作側は判断したのだろう。

やりすぎと言えば、鎌田の「この、日本から遠く離れた台湾の山奥で、我々が百年前に失ったサムライ魂を見たのだろうか」という台詞も、ちょっと唐突すぎるし、臭すぎ。監督が、日本人に「サムライ」と言わせたかっただけのような気がする。

そして何に一番驚いたかって、モーナ・ルダオとタイモ・ワリスの言い争いを聞いた小島の子どもが、「俺たちの狩り場だって? この山はみんな日本人のものじゃないか!」と言い返すところ。まだ小学生ぐらいの子どもが、原住民たちの言語を理解してる!なんと賢い子どもだろう!

とまあいろいろツッコミたいところはあるものの、それらは全部どうでもよくなるほどの迫力ある映画で、一部・二部合わせて約5時間の長丁場をぐいぐい押しきられる感じで見てしまった。
これまで台湾映画ってこじんまりした佳作が多いイメージだったけれど、こんなに壮大な歴史大作も作れるんだという驚きも含めて、私がこれまで見た台湾映画のベストワンだ。(次は『KANO』を見る予定なので、早々にベストワンの座がひっくり返る可能性はあるものの)
私は野生動物が人間に狩られる場面はかわいそうで、映画とはいえあまり見たくないのだけれど、この映画は原住民たちが狩りをするシーンも当然出てくる。というか冒頭から、モーナが猪を狩るシーンで映画は始まる。初めはひたすら逃げていた猪が、傷つき、もう逃げられないと悟ったとたん、くるっと向きを変えてモーナに突進してくるシーンが印象的だ。これが実は後半、モーナたちが蜂起する展開の伏線になっている。「猪だって反撃するのに」と、モーナの蜂起に加わることをためらうタダオ頭目に、若者が苛立ったように言う。冒頭の猪のシーンがここにつながるのか!と、思わず膝を打ちたくなった。こういう細部まで計算されつくした演出が多いのも、この映画の魅力だ。

いやーしかしこんなに漢人の影が薄い台湾映画、もとい中華圏の映画は初めて見たかも(笑)。主役は台湾の原住民で、敵は当時、台湾を統治していた日本人。彼らの対立がメーンストーリーなので、台湾に住む圧倒的多数民族の漢人はほとんど画面に出てこない。
そして漢人たちがみなのっぺりした、いかにも東洋系の顔立ちなのに、原住民たちがなぜかみな彫りの深いイケメン(笑)。この映画の主役は原住民だから、イケメン揃いにしたのかと思いきや。実は実際に原住民の血を引く俳優や一般人を起用しているとか。で、現地に住む人の証言でも、台湾の原住民は東洋人離れした顔立ちで、白人のような顔立ちも少なくないらしい。
なぜそんな顔立ちなのかについては根拠もあって、台湾の歴史本によると、太古の昔、マレーシアなどの東南アジアの人間が台湾に渡ってきて、彼らが台湾の原住民になった可能性があるとか。またオランダ統治時代にオランダ人と原住民が混血した可能性もあるらしい。
ともかく、太古の昔から台湾に住んでいた原住民は、たかだか400年前に中国から渡って来た漢人とは全く別の人種なのだ。それを考えると、彼らが漢人とは全く異なった顔立ちなのも納得だ。台湾はもともと原住民の島なのだし、彼らを見て「漢人とは顔立ちが違う」と驚くことの方が、おかしいのかもしれない。

そして、映画の原住民たちはただ彫りが深いだけではなく、りりしい。彼らを「決して屈服しない英雄」として描く映画の演出も、彼らを実際よりりりしく見せているのかもしれない。
だが青年時代のモーナ・ルダオだけは文句なしに美形と思う。演じた大慶は実際に原住民の血が混じっているらしいが、
彼は東南アジアというより、北欧の血が混じっている感じ。ただ美形なだけではなく気品があって、「生まれながらの英雄」のオーラを放っているのが印象的だ。
この映画は一部と二部に分かれており、青年時代のモーナ・ルダオはほぼ一部にしか登場しない。(二部では回想シーンで一瞬映るだけ)
私は一部を見たときは「こんな映画見たことない。文句なしの名作」と感じたが、続いて見た二部ではいささかテンションが落ちた。戦闘シーンが多すぎて、よくあるアクション映画になってしまっている感じ。まあストーリーの展開上、二部が戦闘シーンがメーンになるのは仕方ないのだけれど。それでも一部を見た時に感じたような、「この映画ならでは」の魅力があまり感じられなかったのはどういうことか。思うに、「この映画ならでは」の魅力というのは、「セデックの崇高な魂」が伝わってくるような、神秘的なシーンでは。そしてその神秘性の一部に、青年モーナ・ルダオを演じる大慶の、この世離れした崇高なオーラもあったのではないだろうか。だから大慶がほとんど出てこない二部は、神秘性がやや薄めで、かわりに戦闘アクションはたっぷりめ。
中年になったモーナ・ルダオを演じる林慶台も決して魅力がないわけではなく、いかにも頭目という風格がある。が、私は初めて中年のモーナ・ルダオを見た時、これがモーナ・ルダオだと分からなかった。だって顔立ちといい、体型といい、青年時代の面影がまったくない。まあ顔立ちは、年を取るごとに苦悩が顔に刻まれていったら、ああいう顔に変化するのもおかしくはない。だが身長が10cm以上も縮むのはおかしいって(笑)。青年時代はすらっとした長身で足も長かったモーナが、中年になったらいきなりずんぐりした体型の短足になってるんだもの。違和感が半端なくて、これってキャスティングミスなのでは。何度も言うが、中年モーナ・ルダオに魅力がないわけでは決してない。ただ、青年モーナ・ルダオが成長した姿には見えないというだけで。
この映画ってちょっとミュージカル風のところもあって、原住民たちは何かにつけて歌ったり踊ったりして、それが楽しい。中年モーナ・ルダオも劇中で二度、単独で歌い踊るシーンがある。どちらもモーナの決意を示す重要なシーンなのだが、短足のせいかどこかドスドスした踊りになっており、それが土臭くて良い。良いんだけれど、これが青年モーナのようなすらっとした長身で長足だったら、きっと華麗な踊りになっていただろうなあ。そんな踊りも見たかった。

さっきから中年モーナのことを短足短足と酷い言いようだが、実は私は彼の一番の魅力はあの脚だと思っている。太く、筋骨たくましい脚が地面を踏みしめる時の存在感といったら! あの脚で燃えさかる炎を飛び越えながら、「死ぬまで闘え!我々は真の人だ!」と叫びつつ日本軍に襲いかかるシーンには血が沸き立った。
モーナだけでなく、他の男たちの脚も魅力的だ。原住民は冬であろうと常に腰から下はふんどしいっちょなので、「鍛えられた(ここがポイント)」男の太ももフェチにはたまらない映画だと思う。細くすらっとした脚、太く短い脚、むちむちとした脚など、とにかくいろんなタイプの脚が画面いっぱいに躍動している。ある意味、最高の目の保養映画だと思う。

この映画は中国でも高い評価を得ているが、公開時にはあまりヒットしなかったらしい。その理由をある中国人は映画レビューサイトに、「大陸の二つの敏感な話題に触れているから。一つは日本人、もう一つは台湾人」と書いていた。
映画を見た中国人の感想は様々で、レビューを読むと、この映画を中国産のよくある「抗日ドラマ」と同じ類いと見る人も少なくない。だがもっと別の見方をする人たちもいる。そのレビューの一部をここに紹介して、この記事を締めくくりたい。
「私は映画を見ながら考えた。セデック族をチベット族に、日本人の“文明的”な政策を、私たち漢人のチベットへの“改革”政策に置き換えられることを。霧社事件を、1959年のチベット蜂起と2008年のチベット騒乱に、モーナ頭目が言う“20年後には子どもたちが日本人になってしまう”を、ダライ・ラマが言う“チベット文化が50年後に絶滅する”に置き替えられることを。チベット政策は本当に変えるべきだ!」
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『ローマの休日』
『ローマの休日』

あまりにも有名すぎる映画って、意識しなくてもいろんなところでその映画の写真やストーリーを目にするから、見ていないのに「すでに見たような感覚」になって、意外と見ないままのことが多い。
この映画もすでにストーリーは知っていて、「ラストシーン、主人公二人が目と目を見合わしてうんぬん」とかいうのも知っていたから、「今さら見てもなー」とこれまで見るのを躊躇していた。だが先日見た、これも有名すぎる『七人の侍』が想像以上に面白かったので、「やはり名作は侮れない」と思い、『ローマの休日』を借りてみた。

ドロシー・ラムーアの名前が、なんと二度も出てきた!これが一番の驚きだった(笑)。この映画の撮影当時(1950年代)はドロシー・ラムーアがハリウッドの売れっ子だったことがうかがえて、なんとも時代を感じた。
私はドロシー・ラムーアがヒロインを演じる珍道中シリーズが好きで、だから必然的にドロシー・ラムーアにも親しみがある。オードリー・ヘプバーンのような大女優ではないけれど、だからこそ時代のあだ花的なはかなさがあって良い。
ドロシーについて語るとそのまま珍道中シリーズについて語り出しそうなので、話を強引に『ローマの休日』に戻す。一つだけ珍道中シリーズについて書くならば、私が高校の卒業文集に書いた文は、高校生活とは何の関係もない珍道中シリーズの感想文だった(笑)。もし何か事件を起こしたら、あの感想文がマスコミに晒されるかもと思うと、恐ろしくてとても事件なんか起こせない。

さて『ローマの休日』。だいたいのストーリーは知ってたつもりだったけど、細かい部分は知らなかったので、思った以上に楽しめた。グレゴリー・ペックがパリッとしたいい男すぎて、全然新聞記者に見えない(笑)。新聞記者ってもっとこう、常に寝不足でくたびれているイメージなので。それに対して、オードリー・ヘプバーンは本当にプリンセスらしく見える。でも一番魅力的だったのは川から上がった時の、ずぶ濡れになった姿。『ローマの休日』のオードリーといえばあのショートカットが有名なのに、皮肉にもそのヘアスタイルが崩れた時、濡れた髪が額にぴたっとくっついてる時がもっともきれいで、少年のような中性的な魅力を発散していた。この中性的な魅力はオードリーならではで、当時、それまでのハリウッド女優を見慣れた目にはいかに新鮮だったかが分かる。

ラスト、宮殿から歩き去るブラドリーが、名残惜しそうに、もう一度アンがいた方を振り返るシーンが印象的だ。だがもうそこにアンはいない。それが良い。あそこでもしアンが現れて、ブラドリーを追いかけてきたりしたらハッピーエンドではあるけれど、果たしてここまで語り継がれる映画になったかどうか。この映画は、二人の身分違いの恋が、結局はむくわれないからいつまでも心に残るのだろう。アンを思いながらゆっくりと宮殿を歩き去るブラドリーの、寂しげな、でもどこかさっぱりした表情がいい。どうせ初めから身分違いと分かっていたさ、彼女の事は忘れよう、と自分に言い聞かせているような。

しかしアンがソフトクリームのクリームだけ食べて、コーンを足元に放り捨てたのにはびっくりした。行儀悪いというか、もったいないというか……あれは「一般人とは違う、皇族ならではの非常識」の演出だろうか? それともイタリアでは普通のこと? ハトがたくさんいる観光地だから、コーンは捨てて、ハトに食べさせてあげるのだろうか。
そしてアンは帰国してから、ブラドリーに借りたお金を郵送したのか? これも気になるところである。
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ゴールデンボーイ
『ゴールデンボーイ』
スティーヴン・キング/浅倉久志 訳 新潮文庫

※ネタバレあり

『刑務所のリタ・ヘイワース』と『ゴールデンボーイ』、2つの中編が入った本。本を手に取ったきっかけは、映画『ショーシャンクの空に』を見て、その原作の『刑務所のリタ・ヘイワース』が読みたくなったから。だが読んでみると、もう一編の『ゴールデンボーイ』の方が遥かに面白かったという。
いや『刑務所のリタ・ヘイワース』も面白いんだけど、先に映画を見てストーリーを知ってるから、どうしても「この先どうなるんだろう」というドキドキ感が少ない。それに、なまじ映画の出来がいいもんだから、読みながらいちいち映画と比較してしまう。「あー、映画はここを変更したのね」とか「ここをふくらませたのか」という風に。
小説と映画の違いを簡単に言うと、映画はかわいそうな人はよりかわいそうに、悪者はより悪者に仕立て上げることで、物語をわかりやすく、ドラマチックにした感じ。そんな風に、無意識のうちに映画のシーンをだぶらせながら読んだので、今ひとつ物語にのめり込めなかった。
だが物語の締め方は、私は映画より小説の方が好きだ。あえて完璧なハッピーエンドの一歩手前で終わる、あのもどかしい感じ。物語の結末をはっきり書かず、読者に想像させるあのラストの方が、映画よりも余韻がある。
確かにあの小説を映画化するとなると、ラスト、二人の再会シーンを映像化しないと観客はすっきりしないだろうし、それが小説と映画の違いだろう。別にどっちが正しいとか正しくないとかではなく、映画は映画としてふさわしいラストを提示したし、小説もまた然り。どこまでも広がるコバルトブルーの太平洋と白い砂浜、そしてヨット。それまで刑務所という閉じられた世界での物語が続いていただけに、あのラストシーンの開放感は胸に迫る。美しい映像と音楽で見る者の五感に直接訴える、映画の魅力がいかんなく発揮されていると思う。
だが私はレッドの「希望」が全てかなったあのラストをあえて書かず、読者の想像にゆだねた小説の方が「粋」に感じた。

原作付き映画の場合、「見てから読むか。読んでから見るか」は悩むところだ。だが私は基本的に「読んでから見る」ことにしている。
それは小説より映画の方が、発信する情報量が多くて、観客は基本的に受け身だからだ。小説のように、登場人物の顔や、風景を想像する余地がない。全て映像で説明してくれる。だから映画を見た後に原作を読むと、どうしても映画でその人物を演じた俳優の顔を浮かべながら読んでしまう。これは、自分で自由に登場人物のビジュアルを想像できる小説の読み方としては、もったいないと感じるのだ。
では原作を読んでから映画を見ると、「登場人物が自分のイメージと違う」と、違和感を感じるだろうか? 映画の初めのうちはそれもあるだろうが、すぐれた映画なら、見ているうちに次第に映画に引き込まれ、登場人物のイメージ違いなど気にならなくなると思う。それほど、映画の放つパワーは強烈だからだ。先に原作を読んで自分なりにイメージができている登場人物も、「ま、映画はこれはこれでアリだな」と納得させられてしまう。

だから私は基本的に、映画よりも先に原作を読みたい派。小説よりも情報量が断然多い映画を先に見ると、イメージが固定されてしまう。
個人的にも、観客が一方的に受け身にならざるをえない映画より、読者にも色々と想像の余地がある小説の方が好きだ。
この本に収録されている『ゴールデンボーイ』は、読んでから知ったけれど、映画化もされているらしい。よかった、先に映画を見なくて。心からそう思えるほど、ストーリーの展開が読めなくてハラハラした。本の裏表紙には「少年と老人の交流」とか書いていたからてっきりほのぼの系の話かと思いきや、とんでもない。キングの作品の中では五指に入るほど「エグい」作品なのでは。単なるスプラッター的なエグさじゃなくて、精神的なエグさ。トッドがナチス収容所の残酷さにワクワクする、あのワクワクに少なからず読者は共感する部分があるからこそ、「もしや自分もトッドのように、心の奥底にモンスターが潜んでいるのでは」と不安になる。これはもうキングの思うつぼだろう。
ナチスの戦犯であるドゥサンダーが妙にかっこよく思えるのも、キングの術中にはまっているといえるだろうか。特に初めはトッドに脅され、支配されていたドゥサンダーが、やがてトッドを支配し始める展開は痛快だ。
ドゥサンダーに比べて、トッドの両親が妙にまぬけに書かれているのも面白い。やがて奇妙な友情が芽生えるのかと思えたトッドとドゥサンダーの間に、最後まで友情が芽生えないのも面白い。特にトッドはドゥサンダーが死んだ後も彼を憎悪しているし。これでもしトッドとドゥサンダーの間に友情が芽生えたりしていたら、きっと安っぽい話になっていたことだろう。
ラストの展開も衝撃だ。結局トッドは負け、ドゥサンダーは勝ったという感じ。一応、目覚める可能性が皆無の悪夢の中に落ちていったと書いてはいるけれど、計画通りに自殺できたんだから「勝ち逃げ」だろう。
ナチスの戦犯が最後には勝ったと読者に感じさせる小説ってどうなんだ。しかし文句なしに面白い。残念ながら映画の方はラストを変更したりしてイマイチらしいので、原作のイメージを大事にしたい私は映画は見ないでおこうと思う。
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『キリング・フィールド』
『キリング・フィールド』

映画の存在は昔から知っていて、できれば去年、カンボジアに旅行する前に見ておきたかった映画。旅行から約一年たって、ようやく見ることができた。マイク・オールドフィールドが手がけたテーマ曲が好きで、昔から何度も聞いて耳になじんでいたから、映画本編ではきっとこのテーマ曲が効果的に使われるのだろうと思っていた。だがいざ見ると、エンドクレジットで流れるのみ。本編では、映画の内容に似つかわしくない安っぽいBGMばかりが流れて、映画を台無しにしているように感じた。
安っぽいといえば、ラストシーンで唐突に流れる『イマジン』。感動シーンのはずなのに、シーンと曲が合ってなくて、なんだか安っぽく感じた。
だがあれはひょっとして「感動させよう」としてあの曲を流したのではなくて、歌詞の内容が、ポル・ポトが理想とした世界とかぶっているから? だからあの曲を流したのか? としたら、とっても皮肉がきいている。

80年代に作られた映画なのに、60〜70年代の映画のような荒い映像なのも、カンボジア紛争(70年代)のドキュメンタリーフィルムのようなリアリティを目指したからだろうか。
だがそれにしては、観客への説明が少なすぎる。私は事前にカンボジア紛争やクメール・ルージュについて予備知識があったからなんとか話についていけたが、何も予備知識がない人が見たら、「なんで子どもが大人を見張ってるの?」「なんで手のひらを見せたら殺されたの?」とチンプンカンプンなのでは。

また、これはわざとなんだろうけど、カンボジア人たちの話すクメール語には一切字幕がつかない。だから何を話しているのか全く分からない。唯一、英語を話すカンボジア人二人(プランと、彼を助けるクメール・ルージュの人)だけは、言語が英語なので字幕がつくという分かりやすさ。これは現地語を話すカンボジア人=主役のアメリカ人ジャーナリストにとって未知の存在、ということなのか。また「今、何を話しているのか」観客に分からなくすることで、主役のアメリカ人と同じ目線で映画を体験できるようにしたのかも。

後半、プランとともに逃避行をする子どもがかわいい。カンボジア人役で出ているキャストの大半が実はタイ人らしいけど、白人の子どもより東南アジアの子どもの方がダントツでかわいいと感じさせてくれる。もちろんその子どもにもよるだろうけど。

カンボジア紛争を描いた、実話が元の映画だから、もっと衝撃的なのではと思っていたけど、正直そこまでの衝撃はなかった。見る前の期待が大きすぎたのかも。それでもプランが無事脱出できたときはほっとしたし、後味は悪くない。だがDVDの解説で、プランを演じた俳優がこの数年後に殺されたと読み、一気に後味が悪くなった。クメール・ルージュに囚われの身から奇跡の生還を果たした人が、アメリカで強盗にあっけなく殺される。呆然とするほかない。
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『七人の侍』
『七人の侍』

この作品に限らず、ウン十年前の「古い」映画全てに言えることだが、「有名な作品だから」と、その作品一つだけ見ても、本当の凄さは分からないのではないだろうか。そうではなく、同時代の他の作品もいくつか見て、そこで初めてこの作品がいかに当時、衝撃的だったか。桁外れの作品だったかが、分かるのではないだろうか。
『七人の侍』も、これ一つだけ見ると今では当たり前になった撮影技法で、それほど衝撃は受けない。音質も悪く、叫ぶように話すシーンも多いから、何を言っているのか聞き取りにくい。最初に見終わったとき、台詞のほぼ半分は聞き取れなかった。だが見終わってからようやく、DVDの「設定」メニューで字幕付きが選択できると知り、2回目は字幕付きで見た。そしたら面白いのなんの。
いや、字幕なしで見た一回目も面白かったんだけど、「何言ってるかわからん」というストレスがたまって、それほど物語にのめりこめなかった。

タイトルは『七人の侍』だし、主役も侍たちだと思うが、私は侍よりも百姓たちに惹かれた。なかでもお気に入りは茂助。何かと折り合いの悪い利吉と万造の仲裁役で、常識人。娘の髪を切った万造を叱咤するなど、先を見通す力があって、村全体のことを考えられる度量の持ち主だ。
そんな茂助だからこそ、村の外れにある自分の家が見捨てられると分かったとき、侍たちに反発して独断行動を取ろうとするシーンが胸に迫るのだ。結局は勘兵衛に大喝されて家を諦めるのだが、その後、自分の家が野武士に焼かれるのを見て、「なんだ、あんなボロ屋!」と悔しさをこらえて叫ぶシーンが良い。そして騒ぐ妻や仲間を「持ち場に戻れ!」と叱咤する。地味で目立たない役だが、映画の中で着実に成長している。最後の田植えシーン、利吉や万造とともに、笑顔で太鼓を叩いているのを見てほっとした。

もちろん侍たちも魅力的だ。キリッとした顔つきの「いかにも侍らしい侍」ではなく、どちらかというと商人とか庄屋とかが似合うような、丸顔の俳優が多い。そんな丸顔の侍が五郎兵衛、七郎次、平八と三人もいて、しかもみんな温厚な性格だから、初めは見分けがつかなかった。が、字幕付きで見た二回目では、三人それぞれに魅力的だった。特に飄々とした平八が良い。事あるごとに菊千代につっこんだり、からかったりしていて、何かと菊千代との絡みが多い。だから闘いでは菊千代とのコンビで活躍するのかと思っていたが、闘いが始まる前にあっけなく死んでしまった。実際に闘うシーンが一度もなかった、彼はもっともかわいそうな侍だと思う。「三十人ほど野武士を斬ってみんか」と誘われたのに、結局一人も斬ることなく……「薪割り流」の剣術を見てみたかった。

だが、死ぬシーンがあっけないのは平八だけではない。普通、映画で主役側のキャラが死ぬ時はもっと劇的な演出するものだと思うけれど、この作品の侍たちは、死ぬ間際に顔がアップにならず、最期に何か言い残すこともなく、ただあっけなく死んでいく。銃声がしたら、次の瞬間にはもう倒れていて、そのまま死ぬ。頭や心臓に命中したならともかく、一発打たれただけで即死するか?とも思うし、そこはある意味リアルじゃないと思うけど、あのあっけない死に様が、妙にリアルに感じる。モノクロの荒い画質といい、まるで当時のドキュメンタリー映像を見ているようだ。
主人公である菊千代の死のシーンすら、あっけない。彼を慕っていた子どもたちがその遺体に群がって泣くとか、観客をもらい泣きさせる演出はいくらでもあっただろうが、あえてそれをしなかった黒沢監督の、リアリズムへのこだわりには恐れ入る。もう動かなくなった菊千代の体が雨にさらされるシーンは、死んだ瞬間、人が「モノ」になることをリアルに感じさせる。直前まで、あれだけ元気に闘っていた菊千代だけに、そのギャップが胸に刺さる。

■好きなセリフ
前半だと、
「拙者の望みは、もうちょっと大きい」。
勘兵衛が腕試しした侍が、誘いを断るときのセリフ。この「もうちょっと」という言い回しが良い。言い方も、口ごもったりして、ちょっと未練があるけれど無理してる感じがよく出てる。きっと腹が減っていて、でも空腹よりも侍のプライドが上回ったのだろう。

後半だと、
「二人」。
早朝、鉄砲を奪って戻って来た久蔵が勘兵衛に言うセリフ。自分の手柄を誇ることもなく、ただひとこと「二人」とだけ言い捨ててさっさと仮眠しようとする久蔵。それを聞いた勘兵衛もただひとこと「うん」。
「二人」「うん」ーー短いやりとりだが、久蔵のかっこよさ、そして勘兵衛と久蔵の信頼関係が見事に演出されている名シーンだ。
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