何年たっても、まだ狂ってる。
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道ありき〈青春編〉
※ネタバレあり。

『道ありき〈青春編〉』
著者:三浦綾子/新潮文庫
 
「前川正さんや三浦光世さんなど、綾子さんは次々に素晴らしい人に恵まれて、うらやましい」「しかもその人たちに愛されるんだから、本当に神様に選ばれた人だよね」
「三浦綾子読書会」でこの本を読んだ感想を語り合ったとき、他の人たちから出てきた意見である。確かに前川正や三浦光世は、クリスチャンの中でもかなり希有な存在で、ここまで「できた人物」はなかなかいない。その信仰はもちろん、性格もいつもやさしく穏やかで、それでいて芯はしっかりしており、堀田(三浦綾子の旧姓)綾子を守り励まし、背後から支えていく。とりわけ前川正は、彼女の「道しるべ」として、彼女を神の道へと導いた。彼は言う。「人間はね、一人ひとりに与えられた道があるんですよ」。堀田綾子に与えられた「道」とは、全国の人々をその著作や手紙で励ます「文書伝道家」としての道だった。そしてその働きのために、三浦光世が「パートナー」として備えられた。彼女の著作のほとんどは、病床にふした彼女が話す言葉を三浦光世が書き写す「口述筆記」のスタイルで書かれている。
素晴らしい人たちと出会い、結婚し、作家として活躍した彼女の生涯は、確かに一般人からみると「うらやましい」かもしれない。だがそれはこの自伝で、彼女の心の内面を読んでいるからこそ、そして後年の作家活動を知っているからこそ、そう思えるのではないだろうか。それらを一切知らずに端から見れば、彼女の前半生はうらやましいどころか、めちゃくちゃ過酷である。もし私が彼女のような試練を受けたら、「どうして私ばっかりこんな目に」とやさぐれること請け合い。13年間の闘病生活、しかも後半の7年間は、脊椎カリエスでずっとベッドに寝たきりだった。仰向けの状態で、ギプスで首から背中までをがっちり固定された「絶対安静」。ベッドに上半身を起こすことすらできない。人生でもっとも華やかなはずの20代〜30代にこれは辛い。さらに追い打ちをかけるように、彼女を支えてきた恩師や恋人が相次いで永眠し、彼女を置き去りにしていく。悲しみの極限にあってもなお、寝たきりの彼女は葬儀に行って最後の別れを告げることもできず、それどころか顔も動かせず、ただ天井を見上げて泣くしかない。最愛の人・前川正に先立たれたときも、シーツに顔をうずめて身もだえることすらできないと嘆く場面は、この物語の中でもっとも悲痛な場面である。

「確かに辛くて長い闘病生活だったけど、それでも素晴らしい人たちに支えられて、最終的にそのうちのひとりと結ばれたんだからいいじゃないか」という意見もあるかもしれない。だが前川正や三浦光世も、彼らを愛した彼女の筆で描かれるからこそ素晴らしい人格者に見えるが、いや実際にそうなのだろうが、世間一般の基準からすると「ちょっとヘンな人」に見えないこともない。前川正が「信仰のうすい僕ではあなたを救えない。だからふがいない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」と自分の足を石で打ちつけるシーンなど、私は感動するどころか、ちょっと引いてしまった。「なにこのウザったい自虐アピール。一歩間違えると、単なる“かまってちゃん”じゃん」と。だが堀田綾子は、彼のその行動に大きく心を突き動かされ、「そこまでして、自分を救おうとしてくれている彼の愛」を信じてみようという気になった。それは彼女もまた、真剣だったからではないだろうか。自分では「生きる目的を失い、虚無的に生きている」つもりでも、心の根っこの部分は昔と変わらず真剣だった。肺結核なのに煙草を吸っていた時ですら、「真剣に不良をしている」という感じ。だから前川正の「ちょっとやりすぎでは」というほどの真剣さに心打たれた。友人を救おうとする彼の真剣な魂と、生きる目的を探していた彼女の真剣な魂がふれあったのだ。

後に結婚する三浦光世にしても、世間一般の「魅力的な男性」像からは微妙にズレている。面白かったのは、作者が地の文で三浦を「気が弱い」と評しているところ。一般的に「気の弱い男」は男性的魅力に欠け、恋愛対象になりにくいといわれている。女性は、口では「やさしい人がいい」と言いながらも、心のどこかでは強い男に頼りたい、守られたいと思っているから、だそうだ。
だが堀田綾子は、彼女自身が「気が弱い」と評している三浦に惹かれた。表面的な男らしさよりも、彼の真摯な信仰や誠実さといった、内面的な魅力を愛した。それはすでに当時、彼女がクリスチャンになっていたから……というのは理由にならない。クリスチャンでも、相手の表面的な部分だけを見てしまう場合は往々にある。しかし堀田綾子は違った。なので「綾子さんは素晴らしい人たちに恵まれた」というよりも、「素晴らしい人たちだと気づくことができた」という方が近い気がする。

よく「幸せかどうかは、その人の感じ方で決まる」という。「神に選ばれた」というのもそれと同じで、何も堀田綾子だけが特別に選ばれたのではなく、「選ばれたかどうかは、その人がそれに気づけるかどうかで決まる」と思う。それこそ、「人間には一人ひとりに与えられた道がある」のだから。彼女はその道を見つけることができた。私たちはどうだろうか。自分に備えられた「道」を見つけるためにも、もっと真剣に生きてみようか。そんなことを考えさせられた。


以上が、この作品への好意的な感想。ちょっと辛口な感想としては、もし堀田綾子(結婚前の彼女)が私の身近にいても、恐らく友達にはなれなかっただろうと感じる。私がというより向こうから、私と友達になることを遠慮しそうだ。「文学や哲学などの高尚なテーマについて話せる、高学歴の男」としかつきあいたくなさそう。そう思えるほど、彼女には男友達が多く、女友達は全くといっていいほど登場しない。
「女友達が少なく、男友達が多い」女性というと、同性に嫌われるぶりっ子タイプを連想するが、決してそういうタイプではなく、むしろその逆。「なんでもズケズケと言えるワタシ」のシーンが随所に出てくる。でも実際、その率直ではっきりした性格が、周囲からは魅力的に映ったのだろう。寝たきりになる前はもちろん、寝たきりになってからも、たくさんの男友達が見舞いに来たらしいし。普通に「たくさんの友達がいた」とは書かず、わざわざ「たくさんの男友達がいた」と書くあたりが彼女らしい。しかもその後に、「わたしを愛しはじめている人もいたし、恋人がいながら私に惹かれて、苦しんでいる青年もいた」とか、別に書かなくてもいいようなモテ自慢が続く。だが書いている本人には決して「自慢」という意識はなかっただろう。つまりナチュラルにモテアピールしているわけで、彼女の小説のヒロインが揃いも揃ってモテるのも納得。ヒロインに自分を投影してたんですね。
ナチュラルといえば、二人の男と同時に交際する、いわゆる「二股」もナチュラルだ(笑)。まあそれはいいとしても、二股かけていたうちのひとりの男が、実は人妻とつきあっていたのを知って憤慨し、その人妻をわざわざ「やや肥り気味の女」と形容するところが笑えた。性格わるっ。でもそういう欠点の多い女性だからこそ、彼女を救い、用いた神の計画の不思議さを実感できるともいえる。

総括としては、いろいろと考えさせられる、面白い作品だった。人によってはこの作品が、試練の時に自分を励ます「信仰の書」にもなるのだろうけど、私はあくまで「一女性の自伝」として面白く読んだ。それにしてもこの作品、10代の頃にも一度読んだはずなんだけど、全くといっていいほど内容を覚えてなかった。たぶん10代の自分には、作者の心情があまりピンとこなかったのだろう。
今、この作品を書いた頃の作者と同じ年代になって、ようやくその心情がリアルに感じられるようになったということだろうか。優れた作品というのは、何度読んでも新しい発見がある。将来、またこの本を読み返すことがあったら、今度はどんな感想を抱くのだろうか。
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太陽の黄金の林檎
※ネタバレあり。

『太陽の黄金(きん)の林檎』
レイ・ブラッドベリ/小笠原豊樹 訳 ハヤカワ文庫

ブラッドベリの短編集。SF・ファンタジー作家というイメージが強かったので、この短編集を読んで、その作風の幅広さに驚いた。「金の凧、銀の風」とか、普通に世界童話集に収められていそうだし。
いちいち詩的な比喩表現を織り交ぜながらストーリーが進むので、サクサク読み進めたい人には少しまどろっこしく感じられるかもしれない。でもその巧みな比喩表現のおかげで、物語の情景がまざまざと浮かぶだけでなく、登場人物が吸っている空気の匂いまでも行間から漂ってくるよう。
心に残った話は「霧笛」「四月の魔女」「荒野」「鉢の底の果物」「目に見えぬ少年」「金の凧、銀の風」「黒白対抗戦」「サウンド・オブ・サンダー(雷のような音)」「山のあなたに」「日と影」「草地」「ごみ屋」ーーなんだ、ほとんど全部じゃないか(笑)。
中でもとりわけ印象的だったのが「サウンド・オブ・サンダー(雷のような音)」。蝶を踏みつぶしたことがどうしてああいう変化をもたらしたのか、その「理由」が明かされないまま終わるのが良い。読み終わった後も、読者はあれこれと考えさせられ、妙に後を引く読後感を残す。
私の解釈としては、あの蝶は、実は蝶類の祖先。エッケルスが踏みつぶしたので蝶は子孫を残せなくなり、蝶が存在しない世界に変わってしまった。蝶はあの物語では美の象徴であり、蝶がいない世界は、美しいものを見て感動するという「情緒」を失った世界。だから軍国主義の男を大統領に選んだのだった……と解釈してみた。
映像化したら面白そうな話だなと思って検索すると、この話、近年になって映画化されてるんですね。しかしあまり評判がよくないらしく、原作を大きく改変していて、最後はハッピーエンド(!)になっているとか。そんな、ラストを変えちゃったらあーた、タイトルが「サウンド・オブ・サンダー」である意味がないやん(笑)。でも怖いもの見たさで、近いうちにレンタルしたくなってきた。あの短い話をどうやって膨らませたのか興味もあるし。

「日と影」も面白かった。この作者らしい文明批判がテーマなんだろうけれど、「華氏451度」のような物寂しさはなく、代わりに全編にユーモアが漂っていて、読んでて痛快。主人公が言う「おれたちはスタジオじゃないんだ」という言葉、読んでるときは「そうそう」とうなずくけれど、でも実際、旅先でいい雰囲気の古い建物を見ると、私もすぐ写真を撮りたくなってしまう。でもそれって、その建物の持ち主からすると決して気分のいいものじゃないのでは……ということを考えさせられた。
この話はユーモアたっぷりだけど、他は、読み終わってしみじみと物憂げな気持ちにひたれる話が多い。そして巻末の中島梓の解説が、すがすがしいほどの自分語りだった(笑)。本作の内容に全く触れないなあと思ったら、実は「思い出を大切にしたい」から、数十年ぶりに本作を読み返すことすらしなかったという。
収録された短編が書かれた年代や背景などを知りたかった人からすれば、「だからなんなんだ」「だったら解説を引き受けるなよ」とでも言いたくなるような解説(という名の思い出語り)だけど、それだけブラッドベリに惚れ込んでたんだなということが伝わってきて、これはこれで面白い文章だった。
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塩狩峠
※ネタバレあり。

『塩狩峠』
著者:三浦綾子/新潮社
 
海外の翻訳小説をメインに読んでいると、たまに日本の小説を読んだとき、その読みやすさに驚く(笑)。この作品もあっというまに読み終えた。
とりわけ三浦綾子は、日本人作家の中でも読みやすい部類に入ると思う。奇をてらわない平易な文章は、途中でつっかえることなく、すらすらと読み進められる。
登場人物の思っていることを丸括弧で表記する文体も、「分かりやすさ」の理由の一つだろう。これは別に三浦独自の手法というわけじゃないだろうけど、でも私の拙い読書歴の中で、丸括弧で心のうちをあらわす手法は三浦だけだ。一般的に、作家というのは文章に丸括弧を使いたがらない傾向があるように思う。そういう記号に頼らずに、文字だけですべてを伝えることにこだわっているというか。確かに、文字の中に頻繁に記号が混じっていると違和感がある。なので「文章の美しさ」にこだわる作家の中には、会話文ですらかぎかっこを使わず、地の文に混ぜてしまう作家もいるほどだ。(たとえば日本だと谷崎潤一郎、海外だとジョゼ・サラマーゴなど)

だが三浦はそんな「作家としてのこだわり」よりも、読みやすさ、分かりやすさを優先させて小説を書いていると感じる。それが、デビュー当初から「伝道のために小説を書く」と公言してきた彼女の強さ、たくましさだ。伝道の「手段」としての小説は、まず何よりも分かりやすくなくてはならない。だからこそ、「丸括弧で登場人物の思いをあらわす」手法を貫いてきたのではないだろうか。
かくいう私も昔、初めて彼女の小説を読んだときには、「丸括弧で登場人物の思いをあらわす」手法を安易だと感じ、以来、彼女の著作をあまり読んでこなかった。だが年を経た今になって、三浦綾子のような平易で読みやすい文章こそ、実は書くのがもっとも難しいのだと分かる。この『塩狩峠』を読んで、なおさらその思いを強くした。

とはいえ、やっぱり私には根強い「三浦綾子アレルギー」があるらしい。いやアレルギーというほど深刻なものじゃなく、「違和感」とでも言おうか。そのこともまた、久しぶりに彼女の著作を読んで再確認した。

まず、クリスチャンの登場人物がみな聖人君子すぎること。三浦綾子の小説を読んでキリスト教に興味を持つノンクリスチャンは多いが、そういう人たちが教会に来てもなかなか定着しないのは、小説に出てくるクリスチャンと、現実のクリスチャンとの違いに幻滅するからではないだろうか。まあ小説だから、ある程度はデフォルメしなきゃならないのは分かるけれど。

そして主人公と、彼(彼女)をとりまくクリスチャンが、なぜか美男美女ばかりなこと(笑)。特に女性が主人公の作品に多い。まあこれも小説だから、ヒロインが美人でないと読者を惹きつけられないという理由だろうか。さらにヒロインは性格も良いから、当然、作品中でも異性にモテる。でも当の本人は自分が魅力的であるという自覚や、モテているという自覚はなし。謙虚で素直で、天使のように清純無垢。そんなヒロインは異性の読者からすればたまらなく魅力的なのかもしれないが、同性の読者からするとあまり共感できないーーというのが、これまで何作か三浦の著作を読んできての感想だった。
登場人物には、作者自身が何らかの形で投影されることが多いという。たぶん、三浦自身も若い頃は美人でモテていたのだろう。そう思えるのは、美人な「愛されヒロイン」の描写に全く嫌みがないからだ。

この作品では、主人公・永野信夫の母親である菊、そして永野の恋人のふじ子が、そうした「心清らかで容姿も美しい」クリスチャン女性として登場する。「心清らか」なのはまあいいとしても、容姿まで美人という設定にする必要性を、あまり感じないのだけれど^^; いつも穏やかで心優しくて、それでいて芯は強く、忍耐強い。まさに理想のクリスチャン女性ーーというより、日本女性の理想って感じ。でもそういう完璧な女性だからこそ、物語の最後、それまで凛としていたふじ子が突然、感情を噴出させるシーンに心打たれるのだけれど。

そんな、心清らかなクリスチャンを敵視する登場人物たちがいかにも「悪役然」としているのにも、違和感を感じた。永野の祖母とか、会社の後輩の三堀とか。彼らが意地悪であればあるほど、そんな彼らにも穏やかに接するクリスチャンたちの心の清らかさが引き立つのだろうけど。でもちょっと極端すぎて、まるで昔の少女漫画のようだ(笑)。

ーーと、文句ばっかりつけちゃいましたが。でもそんな私も、物語が終盤になるにつれ目に涙が盛り上がってきて、最後には涙ボロボロになったことをここに告白いたします。前述したような多少の違和感は吹き飛ばすほど、物語に人を引き込む力があったということだろう。この作品が実話を元にしているということ、そしてそれを知った上で読み進めていったことも、物語にのめりこんだ理由だと思う。
そう、この作品は全くのフィクションではない。実際に塩狩峠で、乗客を救うために犠牲の死を遂げた長野政雄をモデルにしている。そのことを知った上で読み始めたから、冒頭から「この無邪気な少年が、最後は壮烈な死を遂げるのか」と胸が痛んだ。そしてどのようにして、犠牲の死を遂げるほどの「愛の人」に変えられていったのかが気になって、ページをめくる手が止まらなかった。
そしてこれは、三浦綾子の筆致が巧みだからだと思うのだけど、永野の家族や友人とのエピソード、ふじ子との恋愛なども、すべて実話だと思って読み進めていたのだ。健康な女性との縁談を蹴って、不治の病で寝たきりのふじ子を選び、彼女の回復を待ち続けるという「美談」すぎる話ですら、実話だと思って読んでいた。それは、周囲に反対されてもなお、ふじ子を愛し続ける永野の心理描写が巧みだったからに他ならない。

終盤、ようやく訪れたふじ子との結納の日、彼女の元に向かう途中の列車で事故に遭遇したというのも、あまりにも悲劇的で運命的で、「実話にしてはできすぎている」と思ったけれど。でも「事実は小説より奇なり」というし、これも実話だと思っていた。
そうではないと知ったのは、作者によるあとがきを読んだとき。長野政雄はその遺書で、自分が書いた手紙や日記は全て焼却するよう命じたため、残ったのはごくわずかな資料だけだったという。長野の血縁の行方も分からなかったとか。
それでも、長野政雄の信仰の生涯に心打たれた作者は、残されたごくわずかな資料をふくらませて、この小説を書き上げた。当然、架空の人物やエピソードも多い。というか、ほとんどがそうだろう。だから主人公の名前はあえて実名の長野政雄ではなく「永野信夫」という架空名なのだ。実在の長野政雄は、あくまでもモデルである。
だが三浦綾子がこの小説を書いたことで、長野政雄の名前とその死は、日本中に広まった。これは私の推測だけれど、三浦が長野のことを知った1964年頃には、彼の名はすでに世間から忘れられ、かろうじてキリスト教界、それも地元旭川の教会内でしか知られていなかったのではないだろうか。三浦自身も、たまたま自分が通っていた旭川六条教会の信徒の家に訪ねた際に、その信徒から「若き日に信仰に導いてくれた先輩」として、初めて長野のことを教えてもらったという。
だが三浦が彼をモデルに『塩狩峠』を書いたことで、長野政雄の名前はクリスチャンではない人の間にも広まった。今では長野政雄について説明する際、必ず初めに「三浦綾子の『塩狩峠』のモデルになった」という枕詞がつくくらいだ。そのことだけを取ってみても、この小説が果たした意義は果てしなく大きい。

以下、感じたことを箇条書き。

○やっぱり文語体の聖書は格調高くて良い。しかし聖書になじみのない読者のことを考えると、読みやすい口語体で聖書の言葉を載せた方が、より意味がよく伝わるのではないだろうか。でも当時の聖書は文語体だったので、仕方ないか。

○ハンドブレーキをまわしてかなり汽車の速度がゆるんだのなら、乗客はデッキから雪の上へ飛び降りることもできたのでは。私は昔、5年ほど北海道に住んでいたけれど、あの時期の山はかなり雪が深く、しかもパウダースノーだ。なので雪がフカフカのクッションとなって、乗客を受け止めたのではと思ってしまう。
まあ、乗客に順に飛び降りてもらうような時間の余裕はなかったということだろうか。永野には生きていてほしかっただけに、つい「他にもっと方法が」と考えてしまう。

○子どもの頃からタイトルは知っていたけど、なかなか読む機会のなかった『塩狩峠』。初めてそのタイトルを知ったのは子どもの頃、教会で、この小説を元にした映画の上映会があったとき。私の祖父が牧師をしていた教会で、私も「お客さん」ではなかったので、上映中は他のお客に席を譲り、全編通しては見ていない。と書くと謙虚なようだが、実は私もそんなに見たいと思わなかったのだ。その頃から外国映画の方が好きだったし、チラシを見ても、なんだか怖くて暗い映画のようだったし。だが白い雪が真っ赤に染まるシーンは、今も鮮明に覚えている。
原作を読み終えた今、改めてあの映画を見てみるのもいいかもしれない。
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10月はたそがれの国
※ネタバレあり。

『10月はたそがれの国』
レイ・ブラッドベリ/宇野利泰 訳 創元SF文庫

気に入った物語にはできるだけ長くひたっていたい方なので、短編よりも長編の方が好きだ。なのでこれまで主に長編ばかり読んできたけど、先に読んだブラッドベリの「華氏451度」が気に入ったので、評判の高い短編集にも挑戦してみた。
最初に収録されている「こびと」から、すんなり作品世界に引き込まれた。そのまま一気に読んでしまうのがもったいなくて、一日に3編くらいずつ読んでいった。読み終わって、この作品世界から抜け出す日が来るのが惜しかった。
ファンタジーの作品集だけど、そのほとんどが怪奇・ホラー系で、読んでほのぼのするようなファンタジーはほとんどない。だが怪奇・ホラー系といっても、「叙情詩人」ブラッドベリのことだから、血なまぐさい描写は全くない。詩情あふれる美しい文章を堪能しているうちに、いつしか背筋がぞーっと寒くなっていく感じ。
そして全編に漂っている、なんともいえない寂寥感。ジャンルはファンタジーだけど、その根っこでは「人間」を書いているから、この寂寥感が生まれるんだろうな。
収録されている作品のうち、特に心に残ったのは「骨」「壜」「小さな殺人者」「群衆」「大鎌」の五編。中でも「大鎌」がNo.1。「小さな殺人者」は「ローズマリーの赤ちゃん」を思い起こさせた。

最後に、気になった点を箇条書き。
○「アンクル・エナー」に出てくるアンクル・エナーは、「集会」のエナー叔父? この二編は同じ作品世界っぽい。この、翼を持った一族の集大成となる長編「塵よりよみがえり」というのが2002年に出版されているので、また読んでみたい。
○「二階の下宿人」は話としてはよくできているのかもしれないが、人を見た目で毛嫌いする主人公の少年が腹立たしいので読後感悪し。
○「下水道」のアンナが、死んでしまった男との悲恋を嘆き、姉にむかって「私だって姉さんひとりきりで、かわいそうなことに変わりないわ」というセリフ。一緒に住んでいる姉に対してちょっと無神経だろうと。しかも最後は家を飛び出して、姉をひとりぼっちにしているし。
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フロリクス8から来た友人
※ネタバレあり。

『フロリクス8から来た友人』
フィリップ・K・ディック/大森 望 訳 創元SF文庫

私は無駄に正義感が強いのか、昔から不倫を美化・肯定するような小説が嫌いだ。そういう人の道に外れた行為をしているのが脇役とかならまだいいんだけど、 不倫しているのが主人公で、さらに本人に罪悪感がないとかだと最悪だ。そういう話だと分かった時点で読むのをやめられたらいいんだけど、「一度読み始めたら最後まで読まなきゃ気がすまない」性分だからやっかいなのだ。
だから、そういう不倫美化小説は初めから読まないようにしてるんだけど、それでもたまにそういう小説に当たってしまう。はっきりと「テーマ=不倫」と分かる小説なら避けられるけど、ホラーやSFがテーマの小説で、主人公の人物造形として不倫が組み込まれていたりするともうお手上げ。そういう小説は実際に読んでみるまで分からないし、いったん読み始めた以上、途中で投げ出すことはできない性分だし。
小池真理子の『墓地を見おろす家』なんか、相手の奥さんを自殺においやった不倫カップルが主人公だったから、胸のむかつきを押さえながら読んでいたっけ。ラストはそのカップルがバッドエンドを迎えたから、とりあえずは「因果応報」と言えるけど、でも心の奥底で主人公の不幸を願いながら読み進めるっていうのも、それはそれであんまり楽しい読書体験とはいえない。
「たかが小説なんだから。つくりごとの世界にまで、現実の道徳観 念を求めなくても」という意見もあるだろう。でも私はフィクションの世界だからこそ、「良い行いをした人には良い報いがあり、悪い行いをした人には悪い報いがある」ことを求めたくなるというか。だって現実だとなかなかそんな風にはいかないし。悪賢い人がトクをすることの方が多い。だからせめて小説の中では、悪がきちんと裁かれる話が読みたいのだと思う。

ーーと、前置きはこの辺にして。ディックの『フロリクス8から来た友人』である。1982年、映画「ブレードランナー」公開時にその原作小説に興味を持ち、本 屋で『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を買ったのが私のディックとの出会いだった。以来、お気に入り作家の一人なんだけど、この『フロリクス 8から来た友人』は駄目だった。設定はSFとしてはありきたりとはいえ、キャラクターたちが屈折していて面白いし、前半まではワクワクしながら読んでいたんだけれど。主人公の中年男ニックが16才の少女にのめりこんで、妻子を捨てるあたりからもうダメ。性格が屈折してるキャラは好きだけど、自分勝手なのは嫌だ。しかも自分の不倫のせいで家庭崩壊したくせに、それを反省するどころか、奥さんが政治に無関心だから俺が家を出た、みたいに奥さんに責任転嫁するし。口では「君にすまないと思ってる」と言いながら、そのすぐ後にカッとなって奥さん殴るし。こんな自己中が主人公の話には共感できない。後半、この男がいくら政府の代表者にもっともらしいことを言おうとも、子どもに退化した新人にやさしく話しかけようとも、白々しさが漂うばかりでまったく感動しない。もっとも身近な人を守れない男に、地球が救えるかってんだ。
ニックの身勝手さ以外は、なかなか楽しめた小説なので惜しい。半年くらい前に読んだ、同じディックの『高い城の男』に比べると読みやすいし、分かりやすいし。でもその分、フツーのSF活劇って感じで物足りなさは残る。ラスト、エイリアンを伴ったプロヴォーニの帰還により地球がどうなるのかってところで終わるのも、尻切れトンボ感が否めない。

それにしても国内国外とわず、どーして男性作家っていうのはどいつもこいつも「冴えない中年男と、10代〜20代前半の美少女」の組み合わせを好むんだろう (笑)。しかもたいていの場合、少女の方が中年男にぞっこん惚れ込むパターンだし。作者の自己投影や願望が入りまくりで、読んでて「やれやれ」って気分になる。あのディックですら例外ではなかったか。まあそうはいってもやっぱりディックは面白いから、これからも読み続けちゃうんだけどね。

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華氏451度
※ネタバレあり。

『華氏451度』
レイ・ブラッドベリ/宇野利泰訳 ハヤカワ文庫

ここんとこ仕事が忙しくて、全く本が読めてなかった。活字中毒かってくらい活字好きなので、本を読む暇がないときはネットで活字を追うことになる。ネットは手軽にいろんな情報を得られてラクだけれど、やはりネットだけだと物足りない。たぶん、ラクすぎるのだと思う。ネットの場合は文字だけで内容を伝えるってことがほとんどなく、たいてい写真や絵などの「画像」がついてくる。むしろ文字より画像がメインだ。そうしないと視聴者からそっぽを向かれるからだろう。私は活字好きなので、知りたい情報を検索してクリックした先が、文字でびっしり埋まったページだったらもう嬉しくてワクワクするけど。でもネット黎明期の頃に比べて、今はそういう「文字だけのページ」は本当に少なくなった。

そこでやっぱり本に回帰するのである。欲しい情報だけ手軽に得られるネットと違い、本は一冊読み終えるのに根気と集中力が必要なことも多い。読み進む途中でいらいらしたり、「なんで?」と葛藤することも多いけど、それでも最後まで読み終えると深い満足感を得られる本が好きだ。(もちろんそういう本ばっかりじゃないけれど)

忙しくて本を読めない生活が続くと、心に余裕がなくなってくるのが分かる。先日ようやく仕事が一段落したので、約二ヶ月ぶりに図書館に行った。そこでたまたま、手にとったのが『華氏451度』。昔から読みたいと思いつつなかなか読む機会がなかったこの本を、「やっぱり本が必要」と飢えているこの時に手に取ったことに、運命のようなものを感じる……なんて書くのはちょっと大げさか。でもタイトルは昔から知っていても、内容については全く知らなかった。だから、読みながら「これぞ今の私にぴったりな本」だと、その偶然性に驚いた。
50年前の作品だから、ちょっと古くさいと感じる部分もある。科学や技術への極端な拒否反応(登場人物ではなく、作者の)とか、この当時のSFにありがちだな〜と。救いのない未来を描いている点は、ジョージ・オーウェルの『1984年』に似てると感じたけれど、最後まで救いがなかった『1984年』に対し、この『華氏451度』は最後にほのかな希望を残して終わる。なので読後感は『1984年』に比べてずっといい。だがふと思い返すと、『1984年』の場合は政府が国民に強制する形で、ぞっとするような社会を作っていた。だがこの『華氏451度』では、登場人物のセリフにもあるように、政府は何も命令を下していないし、監視も検閲もしていない。政府からの強制ではなく、国民自らが自発的に、「本を読むことも持つこともタブー」とされる異様な社会を作り上げたのだ。そのことに気づいたとき、救いがないのはむしろ『華氏451度』の方ではないかと思った。ちなみに華氏451度とは「本のページに火がつき、燃え上がる温度」なのだとか。

ヒロインかと思われたクラリスがあっさり退場(しかも死んだかどうかはっきりしない)したことに、ちょっと拍子抜けしつつも感動(笑)。ヒロインの魅力で読み進めさせるタイプの小説じゃないってことだよね。その潔さが良い。主人公であるモンターグの奥さんがあまりにも馬鹿っぽく描かれているのは、いかにも「すぐ洗脳される馬鹿奥さん」のステレオタイプでちょっと辟易しちゃったけど。そんなわけで物語の前半はあんまり引き込まれなかったけど、モンターグがフェイバーに「この国に、残存している聖書は何冊ありますか」と尋ねるシーンから、ぐんぐん物語に引き込まれた。そして世界にたった一冊残っていた聖書を持って、地下鉄に乗るシーン。フェイバーが「わしは宗教心の強い方ではない」と言いながらも、その聖書を懐かしそうにめくり、書物の匂いをかぐシーン。「書物はすべてナツメグのように、異国から来た香料の匂いがする」というセリフにも共感した。
モンターグがフェイバーに重い腰をあげさせるために、わざと聖書のページを一枚ずつ破るシーンで、フェイバーが「たのむ、もうやぶらんでくれ!」と必死で懇願するシーンは自分のことのように胸が痛んだ。やっぱり聖書のように、自分も親しんでいる(というほど読み込んでる訳ではないけど)書物が登場すると、本の内容にぐんとリアリティが出てくるなあ。

実はブラッドベリの小説を読んだのはこれが初めてなんだけど、なるほど「詩人」と呼ばれるのも分かる、叙情あふれる詩的な文章が多い。なのでSFというより文学を読んでいる感じ。特に後半はモンターグの逃亡劇が描かれていてサスペンス感たっぷりなんだけど、ハラハラしながらページをめくりつつ、散りばめられた詩的なひとことひとことが胸に響いて、早く先を読みたい気持ちと、もっとこの文章をじっくり味わいたい気持ちとがせめぎあってなかなか辛い(笑)。
特に一人ひとりが図書館の役目を果たしている浮浪者集団と出会ってからは、名文章、名台詞の連続だ。それまで本を燃やす仕事をしていたモンターグ。「火は奪うもの」としか思っていなかった彼が、浮浪者集団が囲んでいるたき火を見て、初めて火のあたたかさに気づく場面は、私がこの本でもっとも心に残った場面かもしれない。他にも、「見かけはただの浮浪者に過ぎんが、頭の中はそれぞれ図書館だ」「表紙を見ただけで、書物の価値を決めなさるな」など、心に残るセリフが多い。
確かに終わり方はちょっとあっけなくて、「え、ここで終わり?」と思ったけれど。「おれたちの戦いはこれからだ!」的な終わり方だ(笑)。でも主人公たちの「その後」に思いをはせられる分、絶望的なバッドエンドよりずっと良い。

ところで私が『華451度』を初めて知ったのは、実は小説ではなく映画でだった。この映画もいつか見たいと思いつつ、「まずは原作を読んでから」という思いがあって今まで見ていなかったのだが、原作も読んだことだし、内容がはっきり頭に残っている今のうちに見てみたいと思う。

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嫉妬
※ネタバレあり。

『嫉妬』
アニー・エルノー/堀 茂樹・菊地よしみ 訳 早川書房

一冊の本に『嫉妬』『事件』の二つの作品が収められていて、これが私にとって両極端な内容だった。本のタイトルにもなっている「嫉妬」は、とても共感できる内容だったけど、『事件』の方はちーっとも共感できず。ほんと両極端な二本立てだった。

まずは『嫉妬』から。六年間つきあった男性にみずから別れを切り出して別れたものの、三ヶ月後、その男性が別の女性と同棲を始めると、たちまち激しい嫉妬に苛まれる女性のお話。あらすじだけ読むと「自分から別れておいて、勝手やな〜」と思うけれど、でも実にありがちな話だと思う。私はこの女性のような経験はないけれど、読みながら共感する部分がとても多かった。もう一度彼を取り戻したいと熱望するけれど、いざ彼が自分の元に戻ってくると、途端に醒めてしまうだろうっていうのがうすうす分かっているところとか。
元彼の同棲相手がどんな女なのか知りたくてたまらず、ストーカーまがいのことまでし始めた彼女が、その体験を「書くこと」によって、妄執じみた嫉妬から解放されるラストも、とても共感できた。書くことによって、元彼と過ごした日々や、今の同棲相手への嫉妬を「過去の物語」として昇華させたのだ。これは作者アニー・エルノーの実体験なので、彼女はそれを書くだけでなく、さらに出版までしている。私も出版こそしないけれど、これまで書くという行為によって、そしてそれをネットで公開することで、何度も精神的に救われてきた。書くことによって、辛い思いを「作品」として昇華させたり、「過去の物語」として葬り去ることができる。書くことで、人は自由になれるのだ。

続いて、これも作者の実体験に基づいたお話しである『事件』。
日本で翻訳出版される外国小説は厳選されたものばかりだから、この作品も小説としてはよくできた部類なんだろうけど、私にとっては「読むんじゃなかった」と思わされたお話しだった。というのも、主人公に全く共感できなかったからだ。
恋人とのセックスで望まない妊娠をしてしまった女性が、当時、違法とされていた中絶を、危なっかしい方法で決行するお話。
レイプされて妊娠したとかならともかく、恋人と合意の行為の末の妊娠で、いわば「自業自得」なのに、悲劇のヒロイン気取りの主人公にイライラしてしまった。生まれたと同時に死ななければならなかった胎児への罪悪感とか全くないし。むしろお腹の中にいる時から邪魔者扱いして、中絶することに何の葛藤もためらいも持たない。中絶した後は、自分は救われた、光の中にいると感じ、その中絶経験を、同じ「中絶仲間」と笑い飛ばす場面には呆れてしまった。
中絶手術を受ける直前に教会に行って、手術の苦しみを少なくしてくれるよう祈る場面にも呆れた。でも同時にリアルだと思った。ヨーロッパはキリスト教社会と言われるけれど、こういう「都合のいい時だけ、自分の都合のいい神に祈る」人がきっととても多いんだろうなあ。この女性は中絶後、再び教会に行ってそのことを神父に告解するんだけど、「それは間違いだった」と後悔する。自分は光の中にいると思っていたのに、罪の中にいると神父に指摘されたからだ。って、カトリック教会は中絶を禁止してるんだから、罪を指摘されるのは当たり前だ。まさか、中絶行為を許されると思って教会に行ったのだろうか? と、ここでまた呆れてしまった。なんか書けば書くほど批判しか出てこないのでこれくらいでやめとこ。でもこうして率直な感想を書くことで、読み終わった後の気分の悪さが、かなりすっきりしたように思う。やはり「書くこと」で人は解放されるのだ。
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日の名残り
※ネタバレあり。

『日の名残り』
カズオ・イシグロ/土屋政雄 訳 中央公論社

読み終わった直後の、素朴な疑問。「執事って結婚できないの?」
いや、そんなことはないはずだ。だってスティーブンスのお父さんも執事だし。
はっきりとは書かれてはいないけれど、ダーリントン卿も結婚している様子がない。それでスティーブンスも、主人をさしおいて結婚することに遠慮があって、独身を貫いたのかもしれない。
それにいくらミス・ケントンとは互いに惹かれ合っていたとはいえ、彼女と結ばれると「職場結婚」になってしまう。常に「偉大な執事とは何か」を考え、「執事の品格」を重んじ、その職業に全てを捧げているスティーブンスにとって、神聖な仕事場で、同僚の女性と「いい仲」になって結婚することには強い抵抗があったのだろう。
ミス・ケントンはスティーブンスよりもうちょっと柔軟で、「本当に好きになったら職場結婚もやむなし」みたいな考えだったように思うけど、彼女自身の気の強さやプライドが邪魔して、どうしても素直になれなかった。ようやく素直になれたのが20年後だったが、時すでに遅し。彼女にはもう旦那も娘もいて、さらに孫まで生まれようとしていて……。それまであまり感情移入せずに読んでいたけれど、ラスト近くのバス停の場面でどっと感情がこみあげてきて、涙がにじんだ。何もかも「もう遅すぎた」ということが切なくって。それまでずっと「仕事に殉ずる堅物執事」だったスティーブンスが、最後の最後に生の感情を吐露するところも感動的だ。「古き良き昔」を振り返っていたように見えて、実はそれほど「良き昔」じゃなかったんだな。むしろ、ダーリントン卿のことはできれば触れないでおきたい辛い過去になっていた。ダーリントン卿の晩年が悲惨だったからこそ、戦前、卿が活躍していた時代が、よりいっそう輝かしく胸に刻まれているのだろう。

同じ作者の『わたしを離さないで』もそうだったけど、テーマは「人は与えられた境遇で、それでも精一杯生きていくしかない」ということだろうか。でも『わたしを離さないで』より、この作品の方が心に残った。それはたぶん、スティーブンスが老年になってから過ちに気づき、それでも前向きに生きようとしているからだろう。老年になってから、自らの過ちを認めることは途方もなく辛い。「世の中を正しい方向に導く人」だと信じて、尽くしていたダーリントン卿が、実は間違っていた。それを認めることは、自分のこれまでの人生を全否定することにもつながってしまう。それでもスティーブンスはその辛い過去を背負ったまま、新しい主人のために、真剣にジョークを研究しようと決意するラストには爽やかな感動があった。過去はどうあれ、彼は「執事として生きる」ことしかできないし、今後もその生き方を貫くだろう。その生きざまが清々しく、私もこんな風に生きたいと思わされた。

とても切ないお話なんだけど、作品全体にどことなくユーモアが漂っているのも、この物語を忘れがたいものにしている。
ミス・ケントンはようやくスティーブンスに気持ちを伝えられたことで吹っ切れて、今後はもう家出しなくなるといいな。あれじゃあ旦那さんが気の毒だから。

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白の闇
※ネタバレあり。

『白の闇』
ジョゼ・サラマーゴ/雨沢 泰 訳 NHK出版

女は強し! というのが第一の、そして最大の感想。作者がこの物語でもっとも伝えたかったことは、そういうことじゃないとは思うんだけど。でも読んでる間も、読み終わったときも、真っ先に出てきた感想がそれ。女は強い。それに対して男たちの、なんと頼りないことか。主人公が女なので、彼女が活躍するのは仕方ないとしても、他の男が役に立たなさすぎる。役に立たないだけでなく、卑劣な手で食糧を独占し、女たちを征服しようとするのも男だ。それに対して激しく抵抗することもなく、自分の妻をおとなしく悪党に差し出す夫たち。状況が状況とはいえ、ちょっと情けなさ過ぎ。
男たちがそんなだから、悪党をやっつけるのも当然、女の役目である。どこまでも強い女たち。特にヒロインがタフで、さらに心優しいときた。自分の夫が若い 娘と浮気しても、夫に愛想尽かすことなく守り、愛し続けるし。そこらへんがちょっと「男にとって都合のいいヒロイン」すぎて、白けてしまった。作者が男なのも納得である。
都合がいいといえば、黒い眼帯の老人と、サングラスの娘の恋愛。この小説を書いたときの作者が70代半ばだったことを知ると、「作者の願望混じってるのかなあ」と邪推したくなる(笑)。

主人公グループで最年少の少年もなあ。物語の冒頭では「ママに会いたい」と泣いていた少年が、次第にたくましくなっていく……なんてことは全くなく、最後まで女たちに守られっぱなし。もしこれが少年ではなく少女だったら、たぶんそれなりに活躍したんだろうなあ。

結局、もっとも頼りになる「男」は、ヒロインになついている犬だという(笑)。あ、でもこの犬が雄とは限らないか。まあ犬の性別はともかく、人間の男より犬の方がよっぽど役に立っているのは事実。物語の後半、みんなの視力が回復すると分かったときにヒロインが泣きながら抱きしめたのが夫ではなく、この犬 だったというのが分かりやすい。

とまあ、男たちの頼りなさが際立っている本作だが、全体的にはなかなか楽しめた。まわりの人間全てが視力を失っていくなか、ただ一人視力を失わないヒロイ ン。ただ一人「見えている」にもかかわらず、彼女はまるで自分も目が見えないかのように話す。そのことを突っ込まれたときに、返した言葉が印象的だっ た。「あなたたちの目が見えないから、わたしも目が見えない。たぶん目の見える人がもっと増えたら、もっと見えてくるでしょう」――ひとは「見える」だけでなく「見られる」ことで、生を実感できるのだろうと、考えさせられた。

それにしてもこの作者は政府や軍隊といった「国家権力」に大きな不満を持っていることが、読んでいて分かる。目の見えなくなった人を病院に隔離して放置、 建物から出ようとすると射殺って、政府をあまりにも「馬鹿で強圧的」に描きすぎ。リアリティゼロ。いやこの物語にリアリティを求める方が間違ってるとは思 うんだけど、近代国家ならもうちょっと穏便な対策をとるだろ、フツー。後書き読んで、作者は共産党員と知って納得したのがちょっと悲しい。
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わたしを離さないで
※ネタバレあり。

『わたしを離さないで』
カズオ・イシグロ/土屋政雄 訳 早川書房

物語の冒頭から、それとなくほのめかされてはいた。でもはっきりと「ああ、そういうことか」と気づいたのは、ルーシー先生が「あなた方は特別な生徒です」と言ったとき。「ですから体を健康に保つこと、とくに内部を健康に保つことが、わたしなどよりずっとずっと重要なのです」
この「内部」という単語への違和感。それは、私が「そういう話だったのか」と気づいたポイントだったけれど、このときだけでなく、物語の他の箇所でもさまざまな形で違和感を感じた。たとえば、自分は素晴らしいことをしたのだと、主人公たちを前に得意げに語るエミリ先生への違和感。自分たちの運命について、なんの疑問も葛藤も持たない主人公たちへの違和感。
だが読み進めていくうちに気づく。「限られた命を生きる 」ということは、私たち読者も、主人公たちとなんら変わりはないことを。私たちも、主人公たちよりは長く生きるというだけで、いつかは死んで灰になる運命を受け入れ、淡々と毎日を生きているということを。
だから私たちは、誰一人逃げず、抵抗せず、自殺もしない主人公たちに違和感を感じながらも、いつしか彼らに感情移入し、その運命に胸を痛めるのかもしれない。
どんな人間も、多かれ少なかれ、制限の中で人生を送っている。その制限の中でどう生きるか。与えられた人生をどのように過ごすか。そのことを考えさせられた。

それにしても、この作者は心理描写、特に子ども心の描写が巧みだ。ややもすると荒唐無稽な設定に深みとリアリティが感じられたのも、淡々とつづられていく丁寧な心理描写があってこそ。同じ作者の『わたしたちが孤児だったころ』は正直、今ひとつだったけど、同時にこの作品を図書館で借りていてよかった。この作者がなぜ、評価が高いのか分かったような気がしたし、今後も作品を読んでいきたいと思う作家に出会うことができた。
ちなみに、物語に出てくる大人たちのなかで、もっとも「いい人」なのは実はケファーズさんじゃないかと思う。ルースから押しつけられた宝物を、初めは「引き取ってくれそうな店はないな」と言っていたのに、ルースが「ほんとうにいいものばっかりだ」と訴えると、「よく見たら、確かにいいもんばっかりだ」と言うシーンにはじーんときた。きっと、普段は無愛想なのも、深く関わってしまうと主人公たちの運命に心をかき乱されてしまうから、あえて距離を置いてるんじゃないだろうか。
まあ「いい人」かどうかはともかく、とても人間的な人のように思う。少なくともヘールシャムの先生たちに比べると。(除くルーシー先生)
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