私たちが乗り込んだバンは、バンコク市内を回ってツアー参加者をピックアップすること約30分。もう座席は全て埋まっているのに、それでもまだホテル前に停車した時は、「まだ乗せるつもりなん?」と驚いた。
その驚きをよそに、数分後、欧米人の若い男性が満席のバンに乗り込んできた。いったいどこに座るんだろうと思って見ていたら、「ウィ〜ン」という起動音とともに、運転席横の補助席が立ち上がった。これには私を含む日本人乗客から、思わず「おお…」と感嘆の声が上がった。
こうして補助席まで使い切ってから、ようやくパンはカンボジアに向けて走り出した。国境まで約5時間ものあいだ、あの座り心地の悪そうな補助席に、あの体格のいい欧米男性が座らせられるのはちょっと気の毒。と同時に、乗り合いバスじゃあるまいし、こういうツアーですら、座席を極限まで満席にしないと出発しない「もったいない精神」にいささか感心する。しかしいくらガス代節約とはいえ、ツアー参加の「お客様」を、補助席に座らせるか、フツー?(笑)。日本ではちょっと考えられない。さすがタイ。
とはいえ、最後部座席に座っていた私たち日本人組は快適だった。バンは快調にカンボジアに向かって走り、車窓の風景もビルが建ち並ぶ都心から、郊外の住宅街へ、そして草原の合間にぽつんぽつんと建物が点在する風景へと移り変わる。バンがバンコクを抜けて、タイの田舎を走っているのだと分かった。だがほとんど家がないような地域にも、ところどころに国王の写真が豪華な額に入って道路脇に飾られている。またタイ国旗と国王の黄色い旗、また王妃の水色の旗もあちこちに掲げられていて、国王の人気はタイ全土におよんでいるのだと実感させられた。
そろそろカンボジアとの国境に近づいたんだと感じたのは、途中、軍服を着た若者が道路に出てきて、それを見た運転手がバンを停めたとき。ライフル銃を抱えたその若者は、運転手と言葉を交わし、バンの中をちらっと確認してから、私たちに「行っていい」と許可を出したようだった。カンボジアとの国境付近で、タイ軍とカンボジア軍が小競り合いを続けていたのは昔の事だと思っていたけど、今も緊張関係は続いているらしい。
再び走り出したバンは、ほどなく、野外にテーブル席を設けた食堂前で停車した。ここでお昼ご飯を食べる予定らしい。
私は、こういうツアーに組み込まれている飲食店は「もれなくまずい」という固定観念がある。なので他の人たちがみなお店のメニューから注文するなか、一人だけ注文せずに、昨夜「Konnichipan」で買ったクロワッサンを食べた。一日経ったクロワッサンは、サクサクだっただろうパン生地がしっとりしていた。でも別にいいもん、節約になるしと思っていたら、運ばれてきた料理を食べたナオヤ君がしみじみと言った。
「タイに来て初めておいしいタイ料理を食べた」
え? もしかしてこの食堂っておいしいの?
同じく注文した料理を食べている他の二人ーー安藤さんと山中さんも、「辛くない」「おいしい」とのこと。そうか、ツアーで利用する食堂だけあって、色んな国の人に受け入れられる味付けにしているのかも。だったら私も一人でしなびたパンかじってないで、注文すればよかったかも……と今頃になってちょっと後悔。
さて私たちがお昼ご飯を食べている間、ツアーを引率しているガイドの人が近くのカンボジア大使館で、私と山中さんのビザを手配してくれていた。で、私たちが食べ終わる頃に、二人のビザを持って帰ってきた。ビザ申請には顔写真が二枚いるんだけど、私がこの時、ガイドに渡した写真は実は3年くらい前のもの。せっかく撮った証明写真を有効利用したいという貧乏根性からだが、白黒だったのが幸いしたのか、ぶじにビザが降りたようだ。
この食堂には、食堂の主人が飼っていると思われる犬が二匹いた。客に迷惑をかけないためだろう、タイの犬にしては珍しく鎖につながれている。
二匹の犬は、私たちのテーブルのすぐ横の「テーブル」で、私たちの食事中ひたすら寝ていた。ガイドはその一匹を指差して「怠け者の犬」と言ったけれど、そりゃこんなに暑いんだもの、バテるのも仕方ない。
さて昼ご飯を食べ終えたツアー一行は、また同じバンに乗り込んで出発。走り出してすぐに、道路の周囲に店が増えて賑やかになってきた。そろそろ国境か、と思っているうちにバンが停車した。
全員下車して、ガイドの後ろをスーツケースを引きずりながらぞろぞろ歩く。するとほどなく目の前に、国王と王妃の写真を中央に飾ったタイの国境ゲートが見えてきた。
このゲートの向こうはもうカンボジア。だがゲートをくぐる前に、入国管理局で出国審査を受けなければならない。タイの入国管理局も、このゲートと同じく民族色豊かな極彩色の建物かと思ったら、コンクリート造りの殺風景な建物で、ちょっと拍子抜けする。
だが撮影スポットにはなりそうにならないものの、入国管理局の中は広々としていて、列をつくって審査を待っている間もそれほど暑さを感じなかった。
審査を終えて管理局を出ると、タイの国境ゲートの足元だった。その向こうには、カンボジアの象徴、アンコールワットが見える。もう一度よく見ると、アンコールワットの精密なコピーを頂きに冠したカンボジアの国境ゲートだった。
どちらの国のゲートも、その国ならではの個性が出ていて面白い。特にカンボジアの国境ゲートは、「いよいよこれからアンコールワットに向かうんだ」という旅情をかきたてられる。
だが、ここからが長かった。カンボジアの国境ゲートをくぐる前に、今度はカンボジアの入国管理局で入国審査を受けるのだが、タイのそれとは雲泥の差の、粗末なプレハブ小屋のような造り。中も狭くて、管理局に入る前から道路に行列ができていた。タイのように建物の中で列を作るのではなく、暑い日射しの下での行列。しかもなかなか列が進まない。結局、審査を終えてゲートをくぐるまでに1時間くらいかかったと思う。
だが待ち時間が長かったおかげで、幸運な出会いもあった。私たちが並んでいるすぐ後ろに、日本人女性も並んでいた。私たちは列に並びながら出入国カードを書いていたのだが、私が書き方に手間取っているのを見て、その女性が声をかけてくれて、書き方を教えてくれたのだ。
彼女は山田鏡子さんといい、私と同じく日本からの旅行者だった。まずベトナムに行ってそこからバンコクに飛び、モーチット発の「国境越えツアー」というバスツアーでここまで来たのだという。国境越えツアーは国境を越えるまでのツアーなので、ここから先は個人旅行とのこと。アンコールワットも個人で観光する予定だとか。もちろん一人で、である。なんか、旅慣れててかっこいい。つい面倒くさくてツアーにしたけれど、やっぱり私も個人でアンコールワット観光した方がよかったかも。
日本ではテレビ番組の制作の仕事をしているという鏡子さんと、私たちはすぐに意気投合し、今夜シェムリアップで一緒に晩ご飯を食べようということになった。時間と待ち合わせ場所を決めた後、管理局を出たところでひとまず彼女とお別れする。
ようやく入国審査を終えて国境ゲートをくぐってからも、私たちはすぐには出発できなかった。私たちツアー一行をそれぞれのホテルまで送り届ける役割のガイドがまだ到着していないらしく、売店前のベンチで1時間近く待たされる。
それにしてもカンボジア側の国境付近は、まるでホテルかと見まがうくらいの、やたら立派な外観のカジノが多かった。あれもタイ資本なのだろうか。
私と同じツアーに参加している欧米人たちも、待ち疲れた表情。手前で、机に座って扇風機を独占(笑)しているのが、私たちをここまで引率してきたガイドのおじさん。
この後、ようやく別のガイドが到着。私たちは今度はバスに乗り込み、出発した。そのバスも約10分ほど走った後、やたらだだっ広い建物前で停車する。一見、音楽ホールのようだけれど、実はタクシー乗り場らしい。タクシー乗り場にこんな大空間の建物が必要なのだろうか。狭すぎてごった返していた入国管理局といい、用途と建物がマッチングしていない気がする。
ここでツアー一行は、それぞれのホテルに向かうタクシーへと乗り換えた。私と大学生のナオヤ君は「サワディー・アンコール・イン」へ向かうので同じタクシー。安藤さんはカンボジア入りするまでのツアーだったので、ホテルはまだ決めていないという。それでもとりあえず、私たちと同じタクシーに乗り込み、出発した。
シェムリアップのホテルまでは約3時間。以前は凸凹だった道のりが舗装されて快適になった、と持参している「ツアー日程」に書いてあった。実際、快適だったけれど、道が舗装されたぶん、運転手が飛ばす飛ばす。前を走る車をどんどん追い抜いて行く。それはなかなかスリリングな体験だったけれど、後部座席の真ん中に座っていた私は、久しぶりに「車酔い」のような軽い吐き気に襲われた。バスに乗ろうが船に乗ろうが、とにかく絶対に「乗り物酔いしない」のが私の強みなはずなのに。その私を車酔いさせるとは。おそるべしカンボジア、というか東南アジアのドライバー。
そんなこんなでちょっと気分悪くなりながら、ようやく「サワディー・アンコール・イン」に到着。ここで、別のホテルに泊まる安藤さんといったん別れる。
この「サワディー・アンコール・イン」、バンコクの日本人経営の旅行会社御用達のゲストハウスらしく、オーナーらしきおじさんは片言の日本語が話せた。つまりそれだけ日本人の宿泊客が多いということで、だからという訳でもないだろうが、玄関で靴を脱いでから建物の中に入るスタイルだった。私は履き慣れて革がクタクタになったビルケンを履いてきたので、玄関に脱ぎっぱなしにしても盗まれる心配はないだろうけれど、心配な人は脱いだ靴を持って自分の部屋まで行っていた。
部屋は簡素だけれど、清潔で必要充分。シャワーもちゃんと熱いお湯が出た。
部屋に入って、まずはベッドの上にごろんと寝転ぶ。丸一日かけての国境越え陸路ツアーは、バンとバス、さらにタクシーを乗り継いでようやくホテルにたどりつけた。移動時間もそうだけれど、入国審査やバスの待ち時間もけっこう長くてけっこう疲れた。でもその疲れを補って余りある、素敵な出会いにも恵まれた。ツアー参加の日本人はみんな一人旅の人ばかりで、すぐに打ち解けていろいろ情報交換できたし。ホテルで10分ほど休んでから、またその人たちと晩ご飯を食べるため、待ち合わせ場所に出かけなくては。疲れてはいたけれど、それが嬉しかった。やっぱり異国では一度くらい、みんなでワイワイと色んな料理を注文したい。